統一されていない官名
對馬國 大官/卑狗 副/卑奴母離
一大國 官/卑狗 副/卑奴母離
末盧國 官名記載なし
伊都國 官/爾支 副/泄謨觚・柄渠觚
奴國 官/シ馬觚 副/卑奴母離
不彌國 官/多模 副/卑奴母離
投馬國 官/彌彌 副/彌彌那利
邪馬台國 官/伊支馬 次/彌馬升 次/彌馬獲支 次/奴佳デ
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狗奴国 官/狗古智卑狗
對馬國 大官/卑狗 副/卑奴母離
一大國 官/卑狗 副/卑奴母離
末盧國 官名記載なし
伊都國 官/爾支 副/泄謨觚・柄渠觚
奴國 官/シ馬觚 副/卑奴母離
不彌國 官/多模 副/卑奴母離
投馬國 官/彌彌 副/彌彌那利
邪馬台國 官/伊支馬 次/彌馬升 次/彌馬獲支 次/奴佳デ
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狗奴国 官/狗古智卑狗
「ようするにここ(対馬国)には、大官と副官という二人のリーダーがいたということになるのでしょう。これについては一般的に、卑狗・卑奴母離といって、長官と副官というような感じの、おそらく邪馬台国から派遣された地方官のような人々がいて、対馬国の王とともに対馬国を統治していた、と解釈される・・・・・・・・・おそらく大昔から住んでいた地元の王に加えて、そこに邪馬台国から派遣された官僚がやってきて、二重構造で対馬国を治めていたのではないかと推測されます。」西谷『魏志倭人伝の考古学』2009 P96「対馬国」より
これがヤマト至上主義的決めつけである。
邪馬台国から派遣された官僚であるのならば、なぜ地域国家によって官名がまちまちなのだろうか?
これらの官はそれぞれの王がそれぞれに立てていた知事なのではないのだろうか?
すると、ではなぜ各国の王の名は記載がないのか?
そもそも陳寿は「国」「官」「王」などと中国の官職制度に合わせて表現しているが、それはあくまで便宜的なことなのではあるまいか?
「国」とは言っても今の「県」や「市」にも及ばぬほどの規模である。倭人伝における「国」とは日本史の「クニ」程度の原初的国邑でしかあるまい。中国人から見てそうした原初的地域区分を表現しようがなく、便宜的に「国」と書いたのであろう。
まさに邪馬台国の「国」と女王国という広範囲な連合体を示す「国」が同じ表現をされていることを「おかしい」とは学者は思わない様だ。
都するところである邪馬台国とは「国家」単位の国ではなく、王がいるクニ=区画に過ぎない。
中国的な「国」とはここでは女王国しかないはずである。表現方法がないから一応国としているのだろう。
しかしそれらは国邑であってつまり村単位であろう。
各国にそれぞれ王はいなかったのだろうか?
邪馬台国から派遣された官僚であるのならば、なぜ地域国家によって官名がまちまちなのだろうか?
これらの官はそれぞれの王がそれぞれに立てていた知事なのではないのだろうか?
すると、ではなぜ各国の王の名は記載がないのか?
そもそも陳寿は「国」「官」「王」などと中国の官職制度に合わせて表現しているが、それはあくまで便宜的なことなのではあるまいか?
「国」とは言っても今の「県」や「市」にも及ばぬほどの規模である。倭人伝における「国」とは日本史の「クニ」程度の原初的国邑でしかあるまい。中国人から見てそうした原初的地域区分を表現しようがなく、便宜的に「国」と書いたのであろう。
まさに邪馬台国の「国」と女王国という広範囲な連合体を示す「国」が同じ表現をされていることを「おかしい」とは学者は思わない様だ。
都するところである邪馬台国とは「国家」単位の国ではなく、王がいるクニ=区画に過ぎない。
中国的な「国」とはここでは女王国しかないはずである。表現方法がないから一応国としているのだろう。
しかしそれらは国邑であってつまり村単位であろう。
各国にそれぞれ王はいなかったのだろうか?
「『後漢書』によりますと、倭の「国はみな王を称した」と書いていますから」(同書)
と西谷は、倭人伝より数百年あとの『後漢書』の記述を持ち出して、倭人伝各国には王がいたと判断している。あとの時代の記録を証拠にするとは解せない話である。
伊都国には「世世王有り」と書かれている。伊都国王はいたことがわかるが、ほかの国々には王名記載がなく、官だけである。奴国王は1~2世紀に金印をもらっている。しかしほかはまずもってどこに各王がいたと書いてあるのか?西谷の推測でしかない。
百歩譲って王がいたとして、それ以外に地方長官がいるという、中国的な監視システムができていたとどうしてわかるのか?官職名の国々でまちまちなことはいったいどうするのか?
と西谷は、倭人伝より数百年あとの『後漢書』の記述を持ち出して、倭人伝各国には王がいたと判断している。あとの時代の記録を証拠にするとは解せない話である。
伊都国には「世世王有り」と書かれている。伊都国王はいたことがわかるが、ほかの国々には王名記載がなく、官だけである。奴国王は1~2世紀に金印をもらっている。しかしほかはまずもってどこに各王がいたと書いてあるのか?西谷の推測でしかない。
百歩譲って王がいたとして、それ以外に地方長官がいるという、中国的な監視システムができていたとどうしてわかるのか?官職名の国々でまちまちなことはいったいどうするのか?
女王国という連合体があったことは認めるが、それが派遣した官僚であるのなら、なにゆえに名前に統一性がないのか?各国の言葉の違いからか?
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ヒナモリ
ヒナモリの名は対馬国と一大国で共通である。
ふたつの国をひとりの王が管理しているということであろうか?
ヒナモリ
ヒナモリの名は対馬国と一大国で共通である。
ふたつの国をひとりの王が管理しているということであろうか?
ミミ
官職名ミミ、ミミナリについては、投馬国だけに存在する。
ミミを朝鮮語で考えると美味があるが、これは記紀が書いている「うまし」に当たるか?
宮崎県に耳川が存在する。
耳川を遡上すると西都原古墳群を経て日向(ひゅうが)ダムを通り、西米良、白銀(しろみ)神社を抜けて一方は椎葉・高千穂、一方は五家の荘へ出る。神武と五瀬命にかかわる地名である。
耳のつく神がさらにそこから北の高森・阿蘇にいた。高森の草部吉見神社に日子八井耳が、阿蘇には神八井耳が、そして天孫降臨の地・笠沙でニニギが娶った妻の子どもはタギシ耳である。
そしてこの鹿児島隼人の血を持ったタギシ耳の名は、なぜか隔絶した出雲の浜の名として残っている。
松江の多芸伎の浜である。
出雲と隼人は古くからの物々交流があったと考えられる。
官職名ミミ、ミミナリについては、投馬国だけに存在する。
ミミを朝鮮語で考えると美味があるが、これは記紀が書いている「うまし」に当たるか?
宮崎県に耳川が存在する。
耳川を遡上すると西都原古墳群を経て日向(ひゅうが)ダムを通り、西米良、白銀(しろみ)神社を抜けて一方は椎葉・高千穂、一方は五家の荘へ出る。神武と五瀬命にかかわる地名である。
耳のつく神がさらにそこから北の高森・阿蘇にいた。高森の草部吉見神社に日子八井耳が、阿蘇には神八井耳が、そして天孫降臨の地・笠沙でニニギが娶った妻の子どもはタギシ耳である。
そしてこの鹿児島隼人の血を持ったタギシ耳の名は、なぜか隔絶した出雲の浜の名として残っている。
松江の多芸伎の浜である。
出雲と隼人は古くからの物々交流があったと考えられる。
そのミミが役職名として投馬国にはあった。
日本神話では出雲国譲りのあと、天孫はなぜかめっぽう離れた日向の高千穂(鹿児島県吾田(あた)地方=姶良)に降臨する。出雲と姶良に深いつながりがあったからではないか?
神話と史書を比べるのはあまり好ましい行いではないが、なにかえにしを感じていたら、ちゃんと出雲には隼人がいたことがわかって驚いたことがある。
また投馬国の中国発音を音声で聞いてみたら{Tama}だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53872553.html
また投馬国の中国発音を音声で聞いてみたら{Tama}だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53872553.html
多摩、埼玉、出雲と隼人の移住は考えてみてよい。
それは考古学的には貝輪の出土や、貝もかつては珠(たま)だったこと、トヨタマヒメの玉、あるいはまた地下式横穴墓や蛇行剣の出土が今後あることを予測させる。
盆地を飛んで移住してゆく熊襲の球磨族とは違う曽於族の海での飛び地移動の痕跡である。
それは考古学的には貝輪の出土や、貝もかつては珠(たま)だったこと、トヨタマヒメの玉、あるいはまた地下式横穴墓や蛇行剣の出土が今後あることを予測させる。
盆地を飛んで移住してゆく熊襲の球磨族とは違う曽於族の海での飛び地移動の痕跡である。
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※阿蘇というと阿蘇山周辺だけで考えがちであるが、阿蘇は有明海も見える。まして縄文海進では阿蘇近くまで海が来ていた。熊本は土地が低いのである。有明海が遠浅で、そこを徐々に水が引いて現れたからだ。だからこそ『隋書』も「阿蘇山あり」と書いている。つまり日子八井耳は神八井耳の兄=古い氏族の神であるのを、あとからヤマトからきた祭祀氏族阿蘇氏が帰順させて同族となったのであろう。
阿蘇の西側から高千穂・高森にかけて古くから草部の吉見氏が存在したと言うことではあるまいか?
それもまた熊襲の球磨族だったかも知れまい。
阿蘇の西側から高千穂・高森にかけて古くから草部の吉見氏が存在したと言うことではあるまいか?
それもまた熊襲の球磨族だったかも知れまい。
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