さまざまな疑問点
◆方位記事
まったくあてにならない記事に仕上がっている。
方位をうんぬんしてもダメ。
そもそも史書正史の性格として、盟するべき国の位置については明確にする地域と誤魔化すべき重要な地域が使い分けされるはずである。
肝心の邪馬台国などが不明である理由はこれしかあるまい。
当時、魏が勝利し、そのあとを晋が継いだと言っても、長江から南は北朝にとってはいつまでも異界・敵対勢力圏であり、情報の隠匿は必要。
そもそもこれまで東大・京大の専門家や東大卒の研究家たちが、重箱の隅をつつくような調査をして諸説ふんぷんだが、いまだに納得できる意見が出ていない。やるだけ無駄である。

◆末慮国から伊都国への東南方位
あきらかに一大国と勘違いしている記事ではないか?
これは陳寿のミス。
陳寿の方位感覚は南と東の偏っており、先入観があったと見える。

◆黒歯国など
女王国のはるか東海上にある環礁のような砂州のような島というのだから、小笠原かソロモン諸島の伝聞を挿入したのではないか?そうすると邪馬台国の位置は畿内から九州の間に決定できる。あ、思い出したが倭の東側にもまだまだ知らない国があるぞという風な、突然の挿入である。

◆大倭という機関
「租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」
これに関してはろくな論考がない。つまり学者もわからないのである。
まずもってなんと読むのかさえもわからない。「たいわ」か「だいわ」か?
役職なのか国なのか、人なのか機関なのかもわからない。
租税を徴収する、官吏の居館があるようなのにである。「大きな倭」とは何か?
この一文だけでわかろうはずもない。これもなにか伏せてあるのか、知らないのか?
まさか「おおやまと」でもあるまい。

◆一大国と一大率
女王国の北の諸国を監視するために伊都国に置かれたのが一大率だと書いてある。
一方一大国は一支の誤りではないかという意見が大勢を占めており、壱岐であるとされる。
場所は壱岐島でいいわけだが、一大率を書いたその手で国名を書き間違えるとも思えない。

◆邪馬台国は南にある
一大率記事で伊都国などは女王国以北だと書いている。
その前にも、女王国は諸国の南に位置して遠くにあると書いてある。
どう見ても、陳寿の考えていた女王国の都は九州島の南にある。

◆狗奴国はもっと南にある
邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国に接していたようである。
狗奴の文字は、いにしえの中国では南部の長江文明時代の国に似た表記である。狗は犬である。
「くな」「くぬ」「くの」「くま」いずれか決めがたい。
しかし倭人伝を九州島だけで考えていると、邪馬台国も狗奴国も琉球列島にまではみださせることとなる。それも一考察であり、一笑にふすわけにもいかない。
日本国民の態勢は記紀にある熊襲の国ではないかとなっているが、大和至上主義者たちは熊野であるとして引かない。しかし考古学的に見て奈良と和歌山から出土する遺物から見て、それほどの大きな大差はないことはがえんじえない。銅鐸も奈良と和歌山ではむしろ和歌山のほうが多く、形式には大差がない。一方熊本県の緑川の北と南にはあきらかな文化的相違が見える。

◆出雲や吉備の地名がないはずはない
もし邪馬台国がヤマトにあったのなら、重要な連合国であり、古い王家があったイズモ・キビ・カズラキ地名が出てこないわけがない。しかしない。

◆ヤマトなら瀬戸内航路が絶対不可欠
ヤマトの大陸への主通路は古墳時代から継体大王時代まで琵琶湖→越前海岸→気比→若狭→出石→出雲→百済である。瀬戸内を通過して九州北部へ出るためには、瀬戸内の海人族を説得し仲間にし、神戸→松山→大三島からどうにかこうにか鞆の浦まで辿り着き、そこから関門海峡を通り抜けねばならない。しかしここに門司の港と関門を置けたのはかなり遅くなる。するとそれまでは岡(おんが)の水人や小倉の海人が容易に通過さなかったと思われる。しかし瀬戸内の地名が出てこない。

◆宇美国から先は不明にしておきたかった
倭人伝は首都への道を教えたくない。ところが中国の使者は最後に女王に謁見したとちゃんと書いてある。知らなかったはずはない。しかしながらあいまいにしてある。

◆長江から先代が逃げてきた人々の子孫が黄河文明の流れである北朝に朝貢?
ほいほい朝貢するかどうかも考えたほうがいい。

◆狗奴国は南朝から同盟地域と見られていた?
これもありえない話ではない。時は三国時代。これは南朝始皇帝からの流れと、漢の北朝の流れの対立構造であり、新旧中国のがちんこ勝負である。まず狗奴国が呉越と深い縁故があり、それが北上してきて女王国はいたしかたなく魏に朝貢、援助を求めたのである。

◆纏向遺跡は邪馬台国か?
纒向は三輪山の麓にあって、多くの水路、運河が発掘されている。これは三輪王朝の実在を徐々にあきらかにする遺跡資料だと判断できる。宮城のような施設は出ているが、それは崇神の宮であろう。まして崇神・垂仁に見合う地域大王が纒向にいたとすれば、別に女王や狗奴国王が近くにいたらどうなるか。
それがカツラギ・キビ・出雲王家で卑弥呼のような女王が治めていたと証明できるかどうか。

◆古墳時代がいくら繰り上がっても・・・
古墳の再現は土師氏ならいくらでも可能である。
古い遺物を埋納することも伝世品があれば可能。
編年で時代を見ている限りそう言われてしまう。
絶対的年代を示さねばなるまい。
ヤマトに邪馬台国論争を持ち込むこと自体が、結局、正しいヤマト古代学の邪魔をしてしまっている。

◆邪馬台国位置論は永遠に解けない
胸にヒミコと書いた遺骨でも出ない限り無理だろう。

◆ヤマトが本当に好きなら倭人伝を捨てなさい

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