では「魏志倭人伝(通称。以下倭人伝)」にはどのような人々が実名で出てくるか。
「その八年(248)、帯方郡の太守の王頎(おう・き)が赴任した。倭の女王①卑弥呼は狗奴国の男王・②卑弥弓呼(ひみくこ?)ともとより不和であったから、倭の③載斯(さいし?)④烏越(うえつ?)らを帯方郡へ派遣、いくさの状況を報告した。(帯方郡では)塞曹えん史の張政(ちょう・せい)らを派遣し、ついでに前に朝貢したときの(正始元年)詔書と黄幢(房の付いた中国の錦の御旗)をもたらし、難升米(なしめ?)に仮授し、檄文を作って教え諭した。(叱咤激励と戦術の伝授)
「卑弥呼がどういう理由か知らないが死んだので、直径145メートル(径百歩・一歩六尺=約1.45メートル換算で)ほどもある塚が作られた。殉死者は百人以上の奴婢である。あたらたに男王を立てたが国内服従せず、また殺し合いが生じ、千人以上が死んだ。そこで卑弥呼の「宗女=あとつぎ」の娘、13歳の⑤台与(あるいは壱與・書によって相違あり。イヨともとトヨも読み方不明)を立てたところ治まった。
張政はこれも教え聡した。トヨは率善中郎将の⑥掖邪狗(えきやく?)ら二十人を派遣し、張政らの帰国を送らせ、同行していって、朝廷に謁見し、男女奴婢(生口)30人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢納した。」(百のう本から)
「景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡[1]に大夫の⑦難升米(なしめ?)と次使の⑧都市牛利(としごり?)を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えた。朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものであった。」
「その四年(西暦245)、倭王、また使大夫⑨伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。」
登場した倭人は全部で九人。具体的で臨場感がある。他の地域にはこれほど詳細な記述がない。
もちろんすでに中国政界で既知だったからとも考えられるが。
もちろんすでに中国政界で既知だったからとも考えられるが。
①倭の女王卑弥呼
②狗奴国男王卑弥弓呼
③倭の使者・載斯(さいし?)
④同じく烏越(うえつ?)
⑤宗女・壹與あるいは臺與
⑦大夫の難升米(なしめ?)
⑧次使の都市牛利(としごり?)
⑨使大夫の伊聲耆(いせいき?)
注;③載斯(さいし?)④烏越(うえつ?)は一人とする説もある。
⑧伊聲耆・掖邪狗を伊聲耆は役職として一人とする人もいる。
②狗奴国男王卑弥弓呼
③倭の使者・載斯(さいし?)
④同じく烏越(うえつ?)
⑤宗女・壹與あるいは臺與
⑦大夫の難升米(なしめ?)
⑧次使の都市牛利(としごり?)
⑨使大夫の伊聲耆(いせいき?)
注;③載斯(さいし?)④烏越(うえつ?)は一人とする説もある。
⑧伊聲耆・掖邪狗を伊聲耆は役職として一人とする人もいる。
卑弥呼と卑弥弓呼の名前は官名であろう。
官職名は各国でいくつか出てくるが、記紀記述と一致するのは「ミミ」「ヒナモリ」くらいか。
「耳」のつく記紀登場人物はほとんどが南九州、熊本中南部そして出雲地方に特化しているの官職名であろう。すべてが氏族祖神と天皇の幼名である。またヒナモリは雛防人であろう。対馬など。
読み方、音を中国人が聞き取って、一音一文字で表記してあると見られる。つまり万葉仮名のような表記である。選んでいる文字は中国でも読み違えの少ない文字を選んでいる。
官職名は各国でいくつか出てくるが、記紀記述と一致するのは「ミミ」「ヒナモリ」くらいか。
「耳」のつく記紀登場人物はほとんどが南九州、熊本中南部そして出雲地方に特化しているの官職名であろう。すべてが氏族祖神と天皇の幼名である。またヒナモリは雛防人であろう。対馬など。
読み方、音を中国人が聞き取って、一音一文字で表記してあると見られる。つまり万葉仮名のような表記である。選んでいる文字は中国でも読み違えの少ない文字を選んでいる。
現場を見たものがメモッたので、倭人への尊崇は薄れており、卑文字が含まれている。行って見てきて現実には倭人がはだしで刺青なので対応が現実的である。
刺青に関しては女もとは書かれていない。男子はである。そして部族によって描く場所が違うとある。
いれずみは魔除けゆえに、海女がいたなら女子もと書いたはずである。ということはこの倭人達は海女ではなかったようだ。しかし海中に水没するというから海士である。
記紀記述から推測して、胸にあると書かれれば宗像族、目の周りなら久米である。
しかし具体的な記述が無い。
いれずみは魔除けゆえに、海女がいたなら女子もと書いたはずである。ということはこの倭人達は海女ではなかったようだ。しかし海中に水没するというから海士である。
記紀記述から推測して、胸にあると書かれれば宗像族、目の周りなら久米である。
しかし具体的な記述が無い。
長江流域から来ていたものの子孫がいれば、すぐにわかったはずだろう。しかしこれもかかれてはいない。
ただ産物が儋耳朱崖(たんじしゅがい)=海南島と同じだと書かれているから、それはかなり南方の産物であるだろう。ということはこれは南九州のほうが近くなる。ならば隼人や熊襲や久米が安曇や宗像と戦の後で北部九州で同棲していることになる。
ただ産物が儋耳朱崖(たんじしゅがい)=海南島と同じだと書かれているから、それはかなり南方の産物であるだろう。ということはこれは南九州のほうが近くなる。ならば隼人や熊襲や久米が安曇や宗像と戦の後で北部九州で同棲していることになる。
鏃(やじり)は鉄であると書かれている。簡易製鉄か輸入品か不明。
いずれにせよ弥生の鉄鏃(てつぞく)は北部九州より南部のほうが多く出る。
北部九州の弥生時代では銅鏡や銅矛などが多く、実用品ではない。
古墳時代の4・5世紀になると一気に鉄製品の威信財が増えるのだが。
狗奴国が勝って北上していれば鉄鏃が多くなるだろう。
4世紀初頭の北部九州は北部・南部の海人族の混生する土地になったようだ。
甕棺が消えるのはそのせいか?
いずれにせよ弥生の鉄鏃(てつぞく)は北部九州より南部のほうが多く出る。
北部九州の弥生時代では銅鏡や銅矛などが多く、実用品ではない。
古墳時代の4・5世紀になると一気に鉄製品の威信財が増えるのだが。
狗奴国が勝って北上していれば鉄鏃が多くなるだろう。
4世紀初頭の北部九州は北部・南部の海人族の混生する土地になったようだ。
甕棺が消えるのはそのせいか?
いくつかの矛盾点がある。
狗奴国が熊襲だとすると、どうしても理解できない点と、非常に納得できる点がまじることになる。
しかし渡来してきた長江文明人の姿はまだ見えない。しかし稲作は行っているとある。海人族が独自で持ち帰った文化もかなりあったと見てよかろう。
狗奴国が熊襲だとすると、どうしても理解できない点と、非常に納得できる点がまじることになる。
しかし渡来してきた長江文明人の姿はまだ見えない。しかし稲作は行っているとある。海人族が独自で持ち帰った文化もかなりあったと見てよかろう。
この同じ時期に畿内で纒向が祭祀街として登場してくる。やはり北部九州からいち早く逃げ出した人々が、既存の吉備や葛城出雲族と開始した弥生文化が三輪山の麓で開始されていたのだろう。ところが北部九州で畿内型土器がかなり出ている。でもどり組がいたようだ。スパイか派遣使節だろう。
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