「東夷伝」抜粋
◆序 「書経曰く」

「書経曰く、「東は海に漸み(すすみ)、西は流沙に被(おお)わる。」と称す。その九服之制、得て言うべし。然に、荒域(文化はつる地)の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらずして、いまだその國俗殊方知るものあらず。虞(舜の時代)より周にいたり、西戎に白環の獻あり、東夷に肅愼の貢あり、皆曠世にして至り、その遐遠なるや此のごとし。漢氏に及び張騫を遣わし西域に使し、河源(黄河の源流)を窮め、諸國を経歴し、遂に都護を置き以ってこれを総領し、然る後、西域の事具存し、故に史官詳載するを得る。」

「魏興り、西域ことごとく至ること能ずと雖も、その大國龜茲・于[ウ/眞]・康居・烏孫・疎勒・月氏・[善β]善・車師の屬、朝貢を奉ぜざる歳なきこと、ほぼ漢氏の故事の如し。しかして公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其絶域となし、海外の事を以って委ね、遂に東夷隔斷し、諸夏(中国。封建時代、中国は複数の国から成り立っていたことから、このように呼ぶ。)に通ずるを得ず。」

「景初中、大いに師旅を興し、淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かび、樂浪・帶方の郡を収め、しかして後海表謐然、東夷屈服す。其後高句麗背叛し、又、偏師を遣わし到討し、窮追すること極遠にして、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐(ふ)み、東に大海を臨む。長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。各に名號あり、詳紀するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり(春秋左氏伝昭公十七年の孔子の言にもとづく。「我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと、猶お信なり。」ちくま学芸文庫は、次のように訳す。『これらは夷狄の国々であるが、祭祀の儀礼が伝わっている。中国に礼が失われた時、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にありえよう。』)。故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ。」

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「序」は『三国志』の付録としての「東夷伝」を、作者で晋の人である陳寿(ちんじゅ)が、なぜ書くことになったかがとつとつとして記されている部分である。
その最大の理由として『漢書』地理誌が記した孔子の言葉が挙げられている。

◆『漢書』地理誌・孔子の言大意
「中国ではもう古くからの良きしきたり風習がすたれてしまった。燕(えん)国あたりには一部でそれが残存していたのだが、それも我国の商人が入って無茶苦茶になってしまった。かつてのそうした好ましいしきたりが残っているのは東夷の国々だけである。ゆえに孔子さえも、前途に望みを失ったときに、筏(いかだ)を海に浮かべて東の海へ立ち去ってしまおうとまで言ったのである。
それ、楽浪海中に倭人ありと言う。分かれて百余国をなす」

◆『(前)漢書』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8#.E6.88.90.E6.9B.B8.E9.81.8E.E7.A8.8B
『漢書』は、後漢の班古(32~92年)が著した中国前漢(前206年~前8年)のことを書いた正史である。つまり『漢書』地理誌は日本が記録された最古の史書で前漢時代の記録である。成立は後漢初等になる。
よく『後漢書』と勘違いした年を書いているサイトがあるので注意すべきである。
『漢書』は『後漢書』との混同を防ぐために『前漢書』とも称されている。

→◆『後漢書』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8
成立は西暦432年。

このように魏志「東夷伝」は『漢書』地理誌の「東夷伝」を手本に書かれている。

有名な一文が
「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もつ)て来り献見すと云う」
である。

◆楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島北部の地方行政機構(植民地との見方も存在する)である。
つまり中国人は3世紀以前に

◆孔子の言葉
『論語』の中にある
「道行われずば、桴(いかだ)に乗じて海に浮ばん。我に従う者は、其(そ)れ由(ゆう)か」 (公治長こうやちょう、第五)
から編集引用した一文である。
孔子はいにしえの周を手本とし、理想としていたが、彼の時代は絶望的に徳の失われた時代だと落胆し、いっそいまだにいにしえの良いしきたりの残ると聞いている東夷(おそらく蓬莱であろう)へ脱出したいと嘆いたのである。
つまり孔子も東の海の果てに倭人たちの国があり、それが蓬莱であることをうすうす知っていたことになるだろう。

今ひとつ、考古学的な証拠品が会稽周辺の古墳から出ていることはご存知と思う。


「これは魏の曹操の曽祖父くらいの年代の先祖、曹氏の古墳(始皇帝時代には沛国譙県・当時は安徽省亳県・今は山東半島北側)の磚(せん)に書かれていた文字に「倭人」があったというまぎれもない事実で、内容は「倭人は来て盟することありや?」である。

曹操以前にすでに倭人が会稽に幾度も来ており、曹氏と盟約するほどの間柄だということになる。

(注)盟する・・・「同盟・連盟の盟であり、「盟する」とは「互いに神前において誓約して、よしみを結ぶ」ことである。後漢書で述べるが、建寧年間を含む「桓帝と霊帝の統治期間(147~189)には倭国において「乱れ(大乱)」が生じ、その結果、女王ヒミコが邪馬台国の王となって収まったのだった。
 「倭人有り」の倭人はその頃の倭人で、この文が果たして、倭国の混乱した状況を受けて作られたものなのか、それとも列島の倭国の状況とは無関係の、大陸における倭人の活動の一端を表した物なのか、どちらとも言い難い。
 ただ、倭人が2世紀の半ば頃に確かに大陸のそこ(安徽省亳県)に居て、後漢人(といってもやがて魏を建国するのだが)と同盟を結ぼうかと言えるような立場にあったことだけは史実と見てよい。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52380542.html

こうしたことから、
① 中国人は倭人の国に蓬莱・扶桑伝説の場所であるという認識を3世紀以前から持っている
② そこは紀元前にすでに失われていた中国の古き良き徳が残っていて
③ 東夷の中でも盟友として選ぶなら倭である

という認識があって、史書の東夷伝や倭人伝も書かれていると考察できることになる。
そこで、『魏志』倭人の記述がなぜ「東夷伝」中最も多くて、詳細で、しかもほかの東夷諸国には一切なかった国王や使者たちの名前までも詳細に書き記した理由は以下のごとくであろうと推測可能である。

■中国は倭人を同盟国と見ていた。
■ゆえに王族の名前を知る必要があった。
■ところがほかの東夷諸国の王名を知る必要が無いと思っている。
■なぜならそれらの大陸国家は侵略するべき土地にある。
■つまり盟友ではなく、属国という認識である。
■そしてそのためには倭人の島国と盟して、挟撃(挟み込んで討つ)のが最良の策であると代々の古代中国王家は考えていた。

これは単に北朝の魏や晋だけに限ったことではないだろう。
古い旧王朝の南朝も同じ考えで倭人と付き合っていたに違いない。

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こうした東アジアの倭人への認識をまず持って「倭人伝」は読み直されねばならない。

明(みん)時代(1368年 - 1644年)
日本では室町時代に禅僧であった絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)という人が中国へ行ったところ、初代皇帝朱元璋は面会を許し、最初にこう聞いたという。
「熊野とはどういうところか?」
要するに徐福伝説である。熊野に辿り着いたと言う噂を中国皇帝までもが知っていたのである。そして日本から来た名も無い禅僧を優待したのである。徐福伝説も『漢書』地理誌が最古の記録である。
それだけ『漢書』地理誌の権威の高さが知れるエピソードであり、倭人に対して中国人がいつまでも格別なあこがれと羨望を持っていた証拠である。

いわんや現代中国政府の行いおや。
礼徳失するところ、孔子もあきれはてていることだろう。

熊野に残存していた海人族。
彼等は徐福を礼を持って迎え入れ歓待したことであろう。
まことに倭人の徳の高さこそ知るべし。

いずれにせよ「倭人」とはこのように舟で渡海する人々であったことはまず間違いが無い。それは内陸の人ではない。盆地の人ではない。海岸の白水郎に間違いなかろう。

これは「倭人伝」を読む際の最初の心得である。
渡来人=帰化人などどこにも出てこない。
ちなみに「渡来人」という言葉の規定もちゃんと知っておくことをお勧めする。
渡来人とはかつての業界用語だった「帰化人」の代わりの言葉である。
帰化人とは海外から来て、朝廷に帰順した人である。それは公民となった人であり、つまり日本人になった人である。弥生時代には「帰化」という観念はなく、基準すべき朝廷国家や戸籍もなかった。厳密にはだから弥生時代以前に渡海してきた民族は歴史用語の「渡来人」には当たらないことになる。
それは渡海人であり、難民であり、侵略者であるかと思える。博多の那珂川の東側に彼等は入っている。
彼等は中国海岸部にいた人々の船などで長江沿岸から離散した長江文明人であり、「倭人伝」に登場していない可能性がある。なぜなら彼等は弥生時代人の一部であり、ほとんどが近畿地方に動いた可能性が高いからだ。そしてその原因は「倭人伝」が書く、狗奴国との争いが原因である。ということはつまり逃げ出したのであろう、九州北部から。残ったのは縄文以来の安曇・宗像・久米・隼人・球磨人であろう。
逃げたからこそ奈良盆地のような不便な山の奥にある盆地に定着したと言える。つまり狗奴国に負けたか、最初からいくさをさけての逃避行である。そもそも長江でも黄河文明に押し出された人々である。


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