「「夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では倭の一字でヤマトと読ませている)。この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麽等、夜麻苔などとも表記され、『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。」
「古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして、752年(天平勝宝4年)もしくは757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。当時の正史である『続日本紀』には何故か改元の記事が漏れている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。」
以上、Wiki大和から引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C
以上、Wiki大和から引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C
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先に「大和至上主義」について簡単に述べておく。
◆大和至上主義
特に国学からの記紀分析の立場では、記紀に忠実であろうとして、あまりにも「初めに大和ありき」としたい主観的決め付けが横行した時代が長く続き、それがその後の記紀、日本史研究に与え続けた悪影響があったことを知っておいたほうがいい。
この項では特に「大和」の表記の開始について記述する。
読み方としての「ヤマト」と、表記としての「大和・倭」などはまた別問題である。
特に国学からの記紀分析の立場では、記紀に忠実であろうとして、あまりにも「初めに大和ありき」としたい主観的決め付けが横行した時代が長く続き、それがその後の記紀、日本史研究に与え続けた悪影響があったことを知っておいたほうがいい。
この項では特に「大和」の表記の開始について記述する。
読み方としての「ヤマト」と、表記としての「大和・倭」などはまた別問題である。
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◆大和表記の始まり
Wikiが書いているように、その開始は多くの学説が一致して、聖武天皇が譲位して孝謙女帝の頃、ちょうど橘奈良麻呂の変(天平宝字元年・757)直後であったというのが主流だ。
聖武天皇時代は「大養徳」国という万葉仮名が充てられている。
聖武天皇時代の藤原広嗣の乱、隼人の乱、藤原仲麻呂の乱、そして奈良麻呂の乱など、この時代は藤原一族と母方橘一族との政権争奪時代である。このためこれ以上の騒乱のないことを祈念して国号表記を「大和」としたのである。
Wikiが書いているように、その開始は多くの学説が一致して、聖武天皇が譲位して孝謙女帝の頃、ちょうど橘奈良麻呂の変(天平宝字元年・757)直後であったというのが主流だ。
聖武天皇時代は「大養徳」国という万葉仮名が充てられている。
聖武天皇時代の藤原広嗣の乱、隼人の乱、藤原仲麻呂の乱、そして奈良麻呂の乱など、この時代は藤原一族と母方橘一族との政権争奪時代である。このためこれ以上の騒乱のないことを祈念して国号表記を「大和」としたのである。
奈良麻呂の変の四ヶ月あと、天平宝字元年11月18日に詠まれた藤原仲麻呂の歌にこうある。
いざ子ども たわわなざせそ 天地の 固めし国ぞ 大倭島根は 万葉集4487
大意
子供等よ、たわけたことを学ぶなよ。わが国は記紀が言うように天地をどろで固めた国土なのだぞ、島に根付いたヤマトの国は!
子供等よ、たわけたことを学ぶなよ。わが国は記紀が言うように天地をどろで固めた国土なのだぞ、島に根付いたヤマトの国は!
仲麻呂はここではまだ大和という文字を使っていない。
『続日本紀』の同時代、元年12月に奈良のヤマト地方(桜井市三輪周辺)の「大倭宿禰」が「大和宿禰」に改名している記事がある(岸俊夫『日本の古代』第一巻「倭人の登場」)。
大倭から大和へ表記変更したのはだから藤原仲麻呂だったという説である。
もちろんそうしたかったのは彼が寵愛を受けていた女帝に相違あるまい。孝謙天皇は仲麻呂失脚後に弓削道鏡に狂い、天皇にしようとまでしたほど、心を病んでいた。その女帝が、仲麻呂にこれ以上は騒乱はいやじゃ、よい国号に変えてたもれ~~~とおねだりしたのだろう。そして「大和」表記を仲麻呂が考え付いた。歴史の裏に女ありである。それでヤマト最古の氏族だった海人族の長・大倭一族も仕方なく大和に改名する。氏族まで名前を変えさせられた。ところがその由緒或る「倭」という氏はなんと、渡来人にやってしまわれる。なんとも・・・。
『続日本紀』の同時代、元年12月に奈良のヤマト地方(桜井市三輪周辺)の「大倭宿禰」が「大和宿禰」に改名している記事がある(岸俊夫『日本の古代』第一巻「倭人の登場」)。
大倭から大和へ表記変更したのはだから藤原仲麻呂だったという説である。
もちろんそうしたかったのは彼が寵愛を受けていた女帝に相違あるまい。孝謙天皇は仲麻呂失脚後に弓削道鏡に狂い、天皇にしようとまでしたほど、心を病んでいた。その女帝が、仲麻呂にこれ以上は騒乱はいやじゃ、よい国号に変えてたもれ~~~とおねだりしたのだろう。そして「大和」表記を仲麻呂が考え付いた。歴史の裏に女ありである。それでヤマト最古の氏族だった海人族の長・大倭一族も仕方なく大和に改名する。氏族まで名前を変えさせられた。ところがその由緒或る「倭」という氏はなんと、渡来人にやってしまわれる。なんとも・・・。
大倭国造と言えば、以前分析したがあの箸墓の、そして伊勢のアマテラスを祭る倭姫の血族であり、大和神社祭祀者である。その祖先は神武を海でナビゲートしたという椎根津彦。九州根つきの海人族である。おそらく兵庫の五色塚古墳や摂津の紫金山古墳の被葬者氏族だ。名族だった。
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『日本書紀』が載せた各種の「ヤマト」表記を、のちの解説者が「大和」に改変したとしか思えない記述や和歌が存在する。さらに、その影響下で国学以降の伝統を重んじる奈良の研究者の中でも、平然と表記を「大和」にしてしまう傾向が軍事に乗じてながながと続いてしまう。それがつい最近まで、いや現在でも時折表出していることは、正しい歴史解釈の立場からは疎ましく邪魔をすることもあるそうだ。
先日書いた頼朝像の間違いなどもそうだが、一度一般人にインプットされると、なかなか修正がむつかしくなる。九州国立博物館とNHKが現在放映している国宝絵画展のCMですら、画像の人物を頼朝と重盛に決め付けた作り方と表現で、「ふたり合わせて源平合戦」などと平然と使用している。これも学説が結論を出していない(十中八九が足利一族がモデル)今、こういう大いなるウソを流し、子供たちに間違いを饗しているのも、実に困り者である。
大和中心主義の弊害は、地方をないがしろにし、列島全域が最初から近畿地方の為政者によって形成されたというまったく勘違いした歴史観を全国民に及ぼす危険性が高く、それ自体が考古学から見ればあきれた捏造であろう。国家としてのヤマトの成立はヤマト地方に「他所から入ったいくつかの氏族」から大王が多くのヤマトとヤマト以外の土地の地方政権によって許容されるところから始まる。その当時、それでもいくつかの地方大豪族はそれに準じない時代が長く続くのである。日本の古い歴史学にはいまだに戦前の皇国史観の残像が、幻のようにまとわりついているというしかない。昨今は、年長者ばかりか、戦後からずいぶんかけ離れた若い世代が、むしろそういう復古の傾向にあることも重要である。(森2011)
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夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 『古事記』
夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏枷枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡波 『日本書紀』やまとは くにのまほらま(まほろば) たたなづく あおがき やまこもれる やまとしうるわし
この歌は『古事記』は倭建命(やまとたける)、『日本書紀』はその父景行天皇の詠歌としており、実際には不明であるので、「記紀歌謡」とされ、詠み人知らずの歌である。
一般的にはヤマトタケルの歌として知られていることと思う。
ところがいつのまにか読み下し文に「大和は国のまほろば」が使われ始めた。戦後まもなくそうなった。
実に戦後としては時代の流れに逆行した大和至上主義的な読み下し表記改変であった。
一般的にはヤマトタケルの歌として知られていることと思う。
ところがいつのまにか読み下し文に「大和は国のまほろば」が使われ始めた。戦後まもなくそうなった。
実に戦後としては時代の流れに逆行した大和至上主義的な読み下し表記改変であった。
戦後、邪馬台国ブームが爆発的に起きたとき、歴史学の主流にいた多くの学者は奈良県の学者だった。考えようによっては「邪馬台国大和説」の底流には常に「皇国史観」という影の影響がなかったとは言い切れず、それは今の畿内学者の中でさえ、消え去った過去の話ではない可能性が高いと言わねばならない。これは非常に残念なイデオロギーであり、学問の態度とはいいがたい。
時代は今、きな臭くなり始めている。
エネルギーの枯渇が、あらたな世界地図の変容の起きる可能性を匂わせ始めた。
人々は再びおろかな奪い合いを始めるつもりであろうか。
一見、なにも関係なさそうな歴史や和歌にさえ、それに利用されかねない部分がある。
事実、戦時中記紀も万葉集も都合のよい解釈によって、大和至上主義が全面に表出した結果、起こったと言えよう。
エネルギーの枯渇が、あらたな世界地図の変容の起きる可能性を匂わせ始めた。
人々は再びおろかな奪い合いを始めるつもりであろうか。
一見、なにも関係なさそうな歴史や和歌にさえ、それに利用されかねない部分がある。
事実、戦時中記紀も万葉集も都合のよい解釈によって、大和至上主義が全面に表出した結果、起こったと言えよう。
読むべき本を間違えると、それこそ戦争へまっしぐらに進みかねないのが人類の危うさではなかろうか?
頭のいい人間が、そうした知らない間の「洗脳」を推進する。
東大とか京大とかで本を選ぶと、私達も父親世代と同じ過ちを繰り返す危険性はそこらじゅうに転がっている。とんでもない話である。
頭のいい人間が、そうした知らない間の「洗脳」を推進する。
東大とか京大とかで本を選ぶと、私達も父親世代と同じ過ちを繰り返す危険性はそこらじゅうに転がっている。とんでもない話である。
そうなったとき、国民はあがらえなくなる。
流れが決まった川であがらえば粛清されてしまうのが先の戦争の開始時の傾向であった。
中庸は「壊れ物」である。
ガラス細工のごとく壊れやすく、飴細工のように流されやすい。
まるで鋭利な刃物の上をわれわれははだしで歩いている。
流れが決まった川であがらえば粛清されてしまうのが先の戦争の開始時の傾向であった。
中庸は「壊れ物」である。
ガラス細工のごとく壊れやすく、飴細工のように流されやすい。
まるで鋭利な刃物の上をわれわれははだしで歩いている。
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コメント
コメント一覧 (3)
小地名であったヤマトに美称である大和の漢字が当てられた時期が 大和と書いてヤマトと読ませることの出来た権力なんでしょうね。
傑作&ランクリ
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました