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◆「金」を「あき」と読ませた実例
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念  万葉集巻一 7 伝・額田王

金の野の 美草苅り葺き宿れりし 兎道の宮処の仮廬しおもほゆ

あきののの みくさかりふき やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ

解説http://f-kowbow.com/ron/meika17/meika17.htm

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金を秋と読ませるのは陰陽五行説から。
木火土金水の五行をそれぞれ季節にあてたときに、金は秋に当たるゆえである。
細かく言うと立秋(旧暦八月八日)~立冬までで、今で言う夏も含まれる。
つまり昔ならこの記事を書いている今は「秋」で、金の季節である。

◆秋葉は金を加工したところ
全国に秋葉地名は多いが、「あきば」「あきばはら」「あきはばら」は鍛冶地名である。秋葉神社などは火を使って枯葉を焼き、炭を焼いたり、あるいはその炭で高温を出して高炉で鉄や金やらの鉱物を精錬した場所という意味である。もっとも古代では金は鉱物全般を指していたので金とは限らない。

◆額田王詠歌と推定される理由
詳細は不明だが、額田王の同時代人である天智天皇陵裏山に、多くの製鉄などの炉のあとがある。これは実地で調べられており、スラグも沢山転がっているから事実。額田部そのものが鍛冶集団でもある。
しかも額田王の母方は平群郡の鏡作郷出身で額田部も鏡王氏も銅鏡製作集団である。
決定打は「うじのみやこ」である。
「額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000961949

兎道の都とは往古の倭五王時代の桐原日桁宮(きりはら・ひげたの・みや)のことである。→http://minami-lo.jp/member/sugiyama_15.html
これをふまえてこの歌は詠まれている。
そして当時の天智もまた近江大津宮の仮住まいだった。
その宮はあわてて造られたためにしっかりした都の形をまだなしておらず、天智も仮住まいだった。
それを案じて妃の額田王が詠んだのであろうとされる。

◆天智遭難
天智は白村江の敗北後、あわてて近江の大津に移動し、その地に多かった渡来人の後ろ盾を望んでいる。ちょうど額田が「紫野行き点野行き」を詠んだあとのことである。つまり天智七年以後の話。
この狩りのあとで再び狩りがあって、天智は天武=当時の大海人皇子と同行して、行方知れずになったと一書が書いている。天智遭難記事である。履を残して消えたと書かれた。つまり=死=暗殺である。

◆天智と百済渡来系近江人=製鉄集団=母方息長氏と伊福部集団
近江はそういう場所だった。滅亡百済からきた渡来人技術者を天智が近江に入れ込んだのは、もともと淡海には母方の息長氏や三尾氏がいたからに他ならない。

◆紫野は薬典寮があった
紫野とは薬農園である。
そこには毒草もあったと思われる。
天智服毒の可能性もある。砒素を盛られていたか、あるいは逆に健康のための少量の砒素、鉱物ミネラルが災いしたか?
『日本書紀』天智十年(671)
「九月、天皇、寝疾不豫」(或る本曰く八月)
重体になって寝付いたという意味である。
このとき天智は自分の陵を山科に決めたとされている。
なぜならその地が盟友藤原鎌足の須恵器窯跡なのである。
山科は鎌足の住居と領地があり、半分以上が須恵器窯と製鉄高炉の地であった。

しかし天智のこの病は相当に重かったようだ。
その証拠が太后倭姫王の歌に見える。

  青旗の 木幡の上をかようとは 目にはみれども 直に逢わぬかも

  あおはたの こはたのうえをかようとは めにはみれども ただにあわぬかも

青旗は死の知らせである。不吉な色であり、「もうあえないかもしれない」という胸騒ぎを象徴している。
この147歌のすぐ次が同じ太后の天皇崩御歌になっている。
おそらくゆるやかな長い間の少量服毒による毒物死ではないかと考えている。

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天智天皇の詠歌であると百人一首だけが明らかにした歌が

秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ  わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ

である。あまりにも有名な歌であるが、実は選者藤原定家はずっとこの歌を詠み人知らずとしていて、百人一首ではじめて天智天皇作と書いたのだ。

天皇には必ず人麻呂のような和歌の師範がつきそう。
だから謹製歌と書かれていても、そのほとんどのヒントは彼等が作ってある。
秋の田の・・・の歌にも、すでにいくつかの類例があった。

 秋田刈る 借廬を作り 吾が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける 2174 詠み人知らず

 秋田守る 仮庵つくり わがおれば ころも手さむし 露ぞ置きける 新古今集

定家も新古今の選者であるが、この歌は詠み人知らずになっている。にもかかわらずそののち、関東武士の宇都宮家がどうしてもと頼み込んだ私家集に過ぎなかった『小倉百人一首』でだけ、天智作とはっきりと書き、しかも一番目に置いた。つまり公的な勅撰集でないからこそ、真実が言えたということだろうか。

百人一首は定家最晩年のやまいに伏して役職も退いたころの選である。つまりおおやけにはばかる立場にはすでになかったし、死の直前だったのだ。どうやらこれは確かに天智の作なのだろう。
そして小倉百人一首は怨恨のうちに死した、つまり謀略や暗躍で消された人々の怨念の和歌集であるとされている。

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個人的に思うことは、その怨念のこもった詞華集である百人一首を、いかに早くとるかを競うような、子どもがするような競技があることにあきれている。一体早く取るのを競うならなにゆえに優雅なる和歌集でなければならぬのか?カルタで十分であろう。おそらくこもった怨念に気がついた先達が、それを払拭するためにスポーツ化していまったのか?
それにしてもクイーンがわが県の娘であるとは、いったいどうしたことなのか?
毎年、意味不明なこの競技で、この子らは和歌の何を学ぶのかと目の前が真っ暗になるのを禁じえない。


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