上毛野国緑野屯倉

安閑二年というから535年くらいの話で、各地に屯倉(みやけ=税になる産物の一時置き場兼県庁)が置かれたということになっている。その中に上毛野国緑野郡(かみつけのくに・みどのぐん)の緑野屯倉も置かれた記録がある。

緑野は今の群馬県と埼玉県の県境に近い、西毛にあった。すぐ北にさきたま古墳群がある。そこに浄法寺という寺があって当時はこれが緑野寺と言われていた。平安時代前期に都になかった優秀な一切経を持っていた寺として名高い。最澄はここを天台宗関東布教の拠点としたかった。

利根川支流の神流川(かんな・がわ)の沿岸である。

◆上野国なのになぜか武蔵国の屯倉・オワケの先祖?
屯倉設置の直前、安閑元年12月、武蔵国造だった笠原直使主(かさはらのあたい・おみ)が同族の小杵(おぎ)と国造を争った。そのとき小杵は上毛野君小熊に援助を求め、オミを殺そうとする。オミは大和の援助をあおごうとする。中央は結局、小杵のほうを処刑する。
笠原はさきたま古墳群の有名な稲荷山古墳鉄剣に書かれている「オワケ臣」の祖先の血を引く可能性がある人物である。鉄剣銘文の中に「オワケの一代前の祖・加差披余」という人の名が刻まれている。「かさはら」と読むかと見える。

緑野屯倉は群馬県内にありながら結果的に笠原の手中に納まっているから、小杵がもともと持っていた土地に相違ない。上毛野君が敗者・小杵を助けたため奪われた格好になる。それで上毛野君の屯倉は佐野屯倉になったようだ。多胡碑のある吉井町すぐそばの、今の藤岡市佐野である。

◆蝦夷俘囚軍事力と渡来人技術者と東海系土器
群馬の西毛は渡来人の多いところだった。そして蝦夷も多く残っていた。
多胡は新羅系が多いところで多胡だと言われている。「胡」は中国ではイランなど西アジアやスキタイ民俗を指す漢字だが、日本では百済を「呉(くれ)」と呼ぶのに対し、「胡」は新羅を差したらしいと森浩一は書いている。
『倭名抄』では碓氷峠のある碓井郡に俘囚郷があるとなっている。多胡にもある。優秀な軍事力・機動力を買われて公民となった蝦夷である。従って上野国では差別がほとんど起きていなかったようだ。現代はそれをすでに忘れてしまっている人も多いことだろう。

緑野郡に入って緑野直となったのは「出羽国の田夷置 井出公 砦麻呂(いでのきみ・あざまろ)ら15人に上毛野緑野直の姓を賜う」(『日本後記』弘仁三年)とあるから、812年のことである。「田夷」というのは蝦夷のことである。出羽からやってきた蝦夷俘囚が関東では直になれた。重要な記事である。

◆出羽蝦夷・蝦狄
出羽では蝦夷は陸奥蝦夷とは区別されており、特に「蝦狄(えみし)」と表記されていた。この呼び方はアイヌと同じである。人種的な類似があるのか?ただしアイヌは表記は同じでも「えぞ」である。
出羽蝦夷(えみし)が優遇されて上野国に来るのは、北まわりの日本海交易に従事したものが多く、そうした功績もあるだろう。おそらく交易船の警護か?

◆東海系土器
考古学では緑野では多くの東海系土器が出る。
地名に尾張郷がちゃんとあるから、尾張から氏族や舟を扱う人々が入っている。
ここに限らず、関東では尾張系・東海系の土器はまとまってあちこちで出る。尾張氏の配下がたくさん各地に入ったことが証明されている。

万葉集に多い東歌のうち、上野国の歌はほとんどがここ西毛で詠まれたものが多い。
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◆6世紀から関東は家内制手工業
関東の産物と言えばまず畑作と桑と養蚕による商布と紙である。
これは全国シェアの大半を占めており、古代から関東がそういう家内制手工業のメッカだったことになって、現代の技術系中小企業の集合とまったく変化していないことがわかる。当時から現代まで、蝦夷や海人や渡来系、東海系の技術者が北関東、武蔵には非常に集中し、「てづくり(万葉集に出てくる言葉)」の伝統はなんと6世紀から続いてきたのである。

参考文献 森浩一『萬葉集に歴史を読む』 ちくま 2011


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ちなみに、『万葉集』の歌の多くは東の歌ばかりであり、和歌発信地の近畿地方を除けば西国の歌はほとんど少ない。
そのうち東歌は最も多く、上野国のものが最も多いのである。そしてそのほとんどが西毛で造られている。

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