「あまがさき」は「海人が埼」である。

「難波津には古代に水運を司った安(阿)曇氏が居をかまえていて、奈良時代に東大寺も交易拠点としての安曇江荘をもっていた。大川左岸には安曇氏の氏寺としての安曇寺があった。京阪電車の線路を地下に設けるさいに、安曇寺の多数の礎石が出土したことがある。大阪市の安堂寺町の地名は安曇寺からついたといわれている。」(森浩一『萬葉集に歴史を読む』第六章 2011)

安曇寺は鎌倉時代まで存在した。その釣鐘が今は京都市山科の安祥寺に移管されている。

安曇氏の本拠地は九州筑前の志賀島周辺であった。

ある遣新羅使が志賀島を歌に詠んでいる。
難波津を出た船は武庫の浦にまず泊まる。
今の兵庫県尼崎である。


  朝びらき 漕ぎ出て来れば牟故の浦 潮干の潟に 鶴(たづ)が声すも  万葉集3595


武庫、務古、むこはかつて潟港であった。
神功皇后もここに立ち寄っている。
呉から来た阿知使主もここに立ち寄って、応神天皇の死を知った。

西求塚(にしもとめづか)古墳が有名である。

播磨から摂津は倭直の土地であろう。
つまり彼等は先住していた播磨灘の海人族をたばねた海の管理者だったのだろう。

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