謡曲「山姥(やまんば)」は昨今ではめったに演じられていない能の「間(あい)狂言」の演目である。
あらましなすじがきは、舞が上手だった都の遊女「百万山姥(ひゃくま・やまんば)」が、迷い込んだ山中で本物の山姥に出会ってしまい、その舞を目にするという話。
相(アイ)が演じる狂言の語りが「狂言回し」として山姥の解説になっている仕立てだが、ワキはその説をことごとく否定するので、ついに三つも説を並べ立てる。
あらましなすじがきは、舞が上手だった都の遊女「百万山姥(ひゃくま・やまんば)」が、迷い込んだ山中で本物の山姥に出会ってしまい、その舞を目にするという話。
相(アイ)が演じる狂言の語りが「狂言回し」として山姥の解説になっている仕立てだが、ワキはその説をことごとく否定するので、ついに三つも説を並べ立てる。
① 山姥は種種のものが集まって変化(へんげ)するもの。その頭には、山中に放置された鰐口が変化し、その目にはドングリが、鼻にはクルミが、耳は茸、髪にはカズラがなる。胴体はマツヤニが集まって風に吹かれて転がっているうちに鰐口と合体してなり、そこに塵芥がどんどんくっついて太り山姥が完成するのだ。
「そりゃあ、違う」
「そりゃあ、違う」
②ならば山中に捨て置かれた門の木戸が腐って柱だけ残り、苔むして目鼻口耳足手がついてなるのだ。
「そりゃ違う」
「そりゃ違う」
③ならば大雨のときに山が崩れ、やまいもの類が顔を出す。これが年を経てひねこびてひげが髪になり、胴体は芋の本体がなり、次第に目鼻手足が生えてくる。
「それもおかしかろう」
「それもおかしかろう」
という具合である。
典拠もあろうがまあ滑稽な話ばかりである。いずれにせよなんらかの器物や植物が山姥の正体であることになる。
中世の謡曲に登場する妖怪変化は押しなべて無生物の精であり、山姥だけはちょっと違っている。
『冷泉家流伊勢抄』によると
「つくもがみとは、百鬼夜行のことである。「陰陽記」のいうことには狐狸などの動物は百年生きると変化して人を誑かす(たぶらかす)から「属喪神」という」とある。
「つくもがみ=付喪神」=九十九神は老人だけでなく、百年生きた狐狸など動物にまで及ぶ。これはすでにそれ以前に『今昔』の例があって新しいものでもない。
また「夜行神」とも言うともある。
九十九年目から変身を始めるから百に一足りぬ「つくもがみ」だと書いている。
「つくもがみ=付喪神」=九十九神は老人だけでなく、百年生きた狐狸など動物にまで及ぶ。これはすでにそれ以前に『今昔』の例があって新しいものでもない。
また「夜行神」とも言うともある。
九十九年目から変身を始めるから百に一足りぬ「つくもがみ」だと書いている。
百にひとつ足りない。何かがひとつたりないものがなるのが味噌である。
百から一を引けば「白」だろうに、そのままではすまない。齢を経るのである。つまり今生きてそれを目にしてしまった人にはなんの所以もわからぬ存在なのである。無責任な変化と言えばまさしくそうである。
百から一を引けば「白」だろうに、そのままではすまない。齢を経るのである。つまり今生きてそれを目にしてしまった人にはなんの所以もわからぬ存在なのである。無責任な変化と言えばまさしくそうである。
「陰陽雑記」とは中国から平安時代に持ち込まれた怪奇小説だが、では、神話のない、散文と分析の世界であった中国でも、妖怪やつくも神はいるのだろうか?次回のお楽しみ。
参考文献 田中貴子『百鬼夜行の見える都市』ちくま学芸文庫 2002
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