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京都の蜂岡寺があった葛野の蜂岡という地名は養蚕氏族地名ではなかろうかと思っている。
葛野一帯の特に嵯峨野は今でも紅葉のメッカとなっているが、カエデの葉が冬前に真っ赤になるのは樹幹に糖分を溜め込んで越冬しようとするからである。
すると樹幹には自然甘い樹液がたまっていることになる。それで甘い樹液にさそわれて春から夏には蜂やらの虫が集まってくる。ゆえに蜂岡なのであろう。

蜂岡寺は今の太秦広隆寺ではないかとされ、葛野秦寺(かどの・はた・でら)とも言われていた。渡来した秦氏の連れてきた氏族に養蚕を得意とするものもいたのかも知れない。



大阪の和泉に蜂田寺があって、花林寺、あるいは華林寺とも言われていて、花が多かったのかと思う。
ここに『新撰姓氏録』にある鉢田薬師(はちだのくすし)が住んでいたと森浩一は考えている。

『姓氏録』和泉国諸蕃として蜂田薬師の名がある。

「呉国孫権王の後なり」とある。

『新撰姓氏録』が出自を呉としている場合、あるいは史書で呉国としている場合、その多くは歴史上の中国国家としての呉越の呉国というよりは、呉があった周辺以南の南朝領域である「くれ」を指す。範囲が長江流域を含めてもっと広範囲になる。あるいはもっと漠然と大陸、朝鮮までも指すこともある。この場合は孫権とあるが、必ずしも呉国とは限らずに、そういう中国南部と言っているのだろう。

と言うか、そもそも古代の医療用語は呉音音読が非常に多い。当時は最新医療は中国南部にあったようである。現代はちょっと前まで医療用語と言えばドイツ語だった。今の医者は語学に弱いので英語でカルテを書く人も多いそうだ。

「静脈」、「臓腑」、「病気」「頭痛」「疝気」「痔」などの言葉はみな呉音で読まれた音である。

蜂田は大阪府堺市、石津川右岸・・・堺市西区八田寺(はんだい・じ)周辺にあった。
範囲はかなり広く、和泉国大鳥郡というから今の堺市鳳(おおとり)に蜂田郷がある(『和名抄』)。
筆者はここで働いたことがある。著名な出身者に僧行基がいる。(家原寺 えばら・じ)

おそらく百舌鳥野の西にあったという石津原がここのことであろう。

石津川の支流が百済川で、百舌鳥古墳群は百済川をつかい物資や人が遡上して古墳を造ったとされている。河口部は重要な港だったのだろう。

蜂田薬師にはほかに蜂田連、蜂田首があるが同一氏族ではないようである。

古代、蜂蜜は薬であった。
つまり養蚕は医者の仕事だったのである。
行基は薬師寺の沙門だったと墓誌にある。蜂田出身だからその末裔だったかも知れぬ。
実際、母親が蜂田薬師の子孫だったという記録もある『日本霊異記』。そして俗名を「越史(こしのふひと)、越後頚城郡の人」と書かれてもいる。それで行基が実は越の頚城(くびき)郡出身とする説もある。父方が新潟だというのである。姓は「こし」だったと。この「こし」は「高志」「古志」などとも書かれる。

『令集解』の中に薬部の記事があり「姓を薬師と称するもの、すなわち蜂田薬師、奈良薬師の類なり」とある。そしてその世襲について言及がある。技術者は世襲・・・同じ職種に代々つかねばならなかった。
世襲という言葉を今はいい意味で用いるが、古代ではほかの仕事は選べないと言う強制的な意味が強い。
薬部などと部民扱いなので技術者全般がそういう身分だったとわかる。
今の薬剤師は立派な国家試験でなるが、当時は医者も薬剤師も被差別民扱いだった。これは韓国のドラマでも同じである。被差別民と書くから御幣が出るが、当時は女性全般もいわば男性から差別されている。差別だらけの世の中では特に被差別民などという観念はない。大半が差別を受けている。

蜂蜜の加工品を「蜜蝋 みつろう」といって正倉院遺物の中にちゃんと残っていることは以前「かわかつの眼」ブログに書いた。カラー画像も乗せている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/820906.html





当時のミツバチは和蜂=クロミツバチであろうか。
今でも地方には個人的に蜜台を置く農家もある。
実は蜜蝋は蝋蜜と言って化粧品の基層に使用されたりする。
貴重品なので貴族しか使えなかっただろう。

蜂という地名、人名にはこのように薬師(くすし)、医療関連の渡来氏族名からつくものがある。
必ずしも鉱山だけとは限らない。


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