『続日本紀』
文武三年(699)正月
「京職言さく(きょうしき、もうさく)、「林坊の新羅が女・牟久売(むくめ)、一たびに二男二女を産みつ」とまおす。あしぎぬ五疋、綿五屯、布十端、稲五百束、乳母一人を賜ふ」

十一月二十八日
「大倭国葛上郡 鴨君糠売(かものきみ・ぬかめ)一たびに二男一女を産みつ。あしぎぬ四疋、綿四屯、布八端、稲四百束、乳母一人を賜ふ。」

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『続日本紀』の「多産褒章」記事は全部で18~19箇所ある。
多くが一度に多くの子どもを生んだという珍しい出来事を特に記してある。
内訳は四つ子2件、三つ子16件。
数ある褒章の品もさることながら、乳母(めのと)一人をそれぞれ贈っているのは古代ならではだろう。
出産=瑞兆、多産=特記すべき瑞兆さったといえる。

現代の1万円なにがしかの奨励金から見れば破格である。

こうした多産記事が書かれた地域は京の近接地か東国に限られている。
また淳仁・称徳時代には記事がなく文武朝に限られる。理由を察するにこれの直前に大隈隼人大量処刑があって、追儺や哀悼憐憫の情がまだ市井に残存したことも関係するだろう。
続日本紀では女の子だけでも褒章が出たが、日本後紀になるとそれはなくなっている。


さて、皇族の乳母の場合、その多くは渡来系氏族が多い。
その理由はなんだったのだろうか?

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