●黄文氏(きぶみ・うじ)
「山背画師(やましろのえし)」という高句麗系の絵師集団があった。669年の遣唐使に加わったとされる黄文本実(きぶみのほんじつ)という人物がいる。黄文画師の出身。神戸大学の百橋明穂(どのはし・あきお)教授(美術史)は、金堂壁画制作を指揮した有力候補とみる。「唐の最新の知識や技術を日本に持ち込んでいる」のがその根拠だ。
「山背画師(やましろのえし)」という高句麗系の絵師集団があった。669年の遣唐使に加わったとされる黄文本実(きぶみのほんじつ)という人物がいる。黄文画師の出身。神戸大学の百橋明穂(どのはし・あきお)教授(美術史)は、金堂壁画制作を指揮した有力候補とみる。「唐の最新の知識や技術を日本に持ち込んでいる」のがその根拠だ。
本実の名は、「日本書紀」「続日本紀(しょくにほんぎ)」に何度か登場する。水平を測る器具を天智天皇に献上し、持統、文武両天皇の葬儀でも重要な役目を担った。絵画に加えて儀礼の幅広い知識を持っていたためとされる。薬師寺に伝わる釈迦の足跡を刻んだ仏足石には、仏足石の図案も本実が唐の都・長安で描き写して持ち帰ったと記されている。
では、高松塚とキトラの壁画はどんな人物が描いたのだろうか。両古墳には共通点が多い。大きさは高松塚の直径23メートルに対してキトラは14メートルと小さいが、どちらも上下2段の円墳で、切り石を箱状に組み合わせた石室を持つ。何より、石室に描かれた四方を守護する神獣・四神の絵はそっくりだ。
奈良文化女子短期大学の来村多加史(きたむら・たかし)教授(日中考古学)は「二つの古墳の四神は原画が同じ。画家も同じ人物」とする。その人物は唐に留学経験があったとし、断定はできないとしながらも、有力候補に本実を挙げる。
「本実の帰国直後の672年に壬申の乱が発生し、本実と同族の黄文大伴が、大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)側について功績をあげている。黄文氏は取り立てられ、本実は絵師のリーダー的地位についたのでしょう」と来村さん。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54797569.html
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美術史が専門の百橋明穂(どのはし・あきお)氏もほぼ同じような意見のようである。
高松塚やキトラのような壁画古墳は、7世紀前半の檜隈にしか今のところ存在しない。
そしてこの古墳は、天皇陵や親王陵のような特別な古墳ではないと書いてもいる。(『古代壁画の世界』2012)
規模から見ても小さく、石室も木棺をいれると立錐の余地もないほど狭い、どちらかといえば小さい古墳である。しかもこの時代、持統天皇が火葬されたことによって、「ブーム」は火葬、墳墓縮小化へと突き進んでいた。墳墓はどんどん「薄葬」に向かっており古墳そのものが大和ではもうメジャーではなくなっていた。それでもこの被葬者一族は小さいながらも古来の古墳を造り、死者を木棺に埋葬し、壁画を描かせた。
檜隈の南のはじっこに、この二つの墳墓は造られた。北にある天武・持統陵の南のはじっこである。キトラは高松塚よりもさらに離れている。あきらかに高松塚>キトラという地位関係を示しているようだ。
高松塚やキトラのような壁画古墳は、7世紀前半の檜隈にしか今のところ存在しない。
そしてこの古墳は、天皇陵や親王陵のような特別な古墳ではないと書いてもいる。(『古代壁画の世界』2012)
規模から見ても小さく、石室も木棺をいれると立錐の余地もないほど狭い、どちらかといえば小さい古墳である。しかもこの時代、持統天皇が火葬されたことによって、「ブーム」は火葬、墳墓縮小化へと突き進んでいた。墳墓はどんどん「薄葬」に向かっており古墳そのものが大和ではもうメジャーではなくなっていた。それでもこの被葬者一族は小さいながらも古来の古墳を造り、死者を木棺に埋葬し、壁画を描かせた。
檜隈の南のはじっこに、この二つの墳墓は造られた。北にある天武・持統陵の南のはじっこである。キトラは高松塚よりもさらに離れている。あきらかに高松塚>キトラという地位関係を示しているようだ。
このような高祖に対する南側「殉葬」の風習は隋・唐の前例があり、それに準じたものであると百橋は言う。天武・持統の政治に関わり、これを高祖とする考えの氏族。さらに天武の壬申の乱に深く関わった人
。記録から考えれば、それは黄文本実の同族である黄文大伴(壬申の乱に活躍し褒章)が有力となる。また本実自身も有力である。
。記録から考えれば、それは黄文本実の同族である黄文大伴(壬申の乱に活躍し褒章)が有力となる。また本実自身も有力である。
●大王・天皇家の古墳には壁画は描かれない
大和の皇室の墳墓も、それ以前の大王の古墳も、親王の古墳も、一切、壁画は持っていない。それが大王家の葬儀の流儀だったことは間違いがない。従って高松塚もキトラの被葬者も、まず皇室・王族とは違う氏族であろう。親王陵墓説はこれだけで覆る。高祖一族がしなかったことを親王がするはずもない。しかし渡来人子孫である黄文氏なら、そういう「卑俗な行為」も許された。なぜ卑属と大和の貴族たちが考えるか?それは壁画を持った墳墓など、過去、地方豪族の装飾古墳がけが行った風習だったからだ。
大和の皇室の墳墓も、それ以前の大王の古墳も、親王の古墳も、一切、壁画は持っていない。それが大王家の葬儀の流儀だったことは間違いがない。従って高松塚もキトラの被葬者も、まず皇室・王族とは違う氏族であろう。親王陵墓説はこれだけで覆る。高祖一族がしなかったことを親王がするはずもない。しかし渡来人子孫である黄文氏なら、そういう「卑俗な行為」も許された。なぜ卑属と大和の貴族たちが考えるか?それは壁画を持った墳墓など、過去、地方豪族の装飾古墳がけが行った風習だったからだ。
これらの大和のふたつしかない壁画古墳の、壁画の意匠はあきらかに高句麗を経由した北魏様式であり、唐もそれを真似したものもいくらかはある。しかし中国では壁画古墳は決して主流ではなく、わずかに華北の遊牧民国家の王しか例がなく、北魏に多い独特の趣味であろうと思える。
つまり壁画古墳は大和の葬儀通例からは遠く離れた存在なのである。
したがって、これを実行しえた氏族は、北魏の影響下にあった、というか、北魏が南下したことによる進入して高句麗人となった氏族が、滅亡後に南下して日本にやってきたかの、いずれかの氏族なのであり、それは記録上ではやはり被葬者も黄文氏の誰かだったのではないか、となるのである。
今後はこうした高句麗経由の北魏系壁画古墳と、大和氏族が三世紀後半から愛用してきた日本にしかない装飾紋である直弧文のルーツ考察のリンクする部分・考古資料を探すことも重要かも知れない。例えば具体的に岡山の造山古墳などは、阿蘇ピンク石とのかねあいからも分析が待たれる。直弧文の起源を探すことは纒向が邪馬台国かどうかを決めるのに大いに役立つだろう。九州で直弧文は吉備系氏族のステータスであった可能性もある。また岡山に多い高句麗系陶棺風習や鉄鉱石による早期の製鉄なども決め手になるだろう。筆者的には纒向よりも岡山をもtt@掘れと申したいところである。
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