◆諏訪大社風祝(かぜのはふり)
「「風祝」とは諏訪大社に存在したといわれている神職の名称であり、平安時代頃から「諏訪には風祝がいる。」という表現が様々な書物でされていた。

例として平安時代末期の藤原清輔による歌論書、『袋草子』には次のような歌が載せられている。

         信濃なる木曽路の桜咲きにけり 風の祝に隙間あらすな

これは源俊頼の和歌であり、現代語訳すると「信濃の美しい桜を風が散らさないように、風祝の籠もる室には隙間がないようにしてくれ。」といったところであろう。
そして次のような注釈が添えられている。

「信濃の国は極めて風のはやき所なり、よりて諏方の明神の社、風の祝というものを置きて、是を春の始めに深物に籠り居て、祝して百日の間尊重するなり。然れば其の年およそ風静かにして農業を為すに吉なり。(以下略)」

これによると春の始めに「風祝」が百日の間深い所に籠もり、同時にこれ(風祝) を尊重するとある。
ある意味で現人神(あらひとがみ)のような扱いだったのではないかと想像できる。

また、これに似た「御室籠り」という神事がかつてはあり、諏訪大社の「大祝」が室に籠もっていた。
そしてこの大祝は現人神のような扱いを受けていたという。
(その例として諏訪大社の新嘗祭は大祝を中心として行われ、宮中では天皇が行う役割を大祝が果たしていた。)

しかし実際に行われていた「御室籠り」と『袋草子』の記述では大きな差がある。

実際は籠もる期間は二ヶ月程度であったし、籠もる理由も風鎮めのためというよりはミシャグジ神を祀る意味合いの方が強かったとされている。

また、「風の祝塚」というものがかつて上社の境内に存在していたという記述が『上社社頭絵図』にある。
そしてその塚(実際は小さい洞窟) では神幣を閉じ込めて、外に出て暴れないようにしていたという伝承が残されている。
このことを見ると風祝が風鎮めの祭祀を行っていたかのように見える。

しかし、このような洞窟の中に神幣を閉じ込めるという風習は全国に見られるため風祝が特別に行っていた祭祀であるとは考えにくい。

そもそもこの「風祝」という言葉は主に京で書かれた文章に多く見られ、諏訪で書かれた文章で見ることは出来ない。

その理由として伊藤麟太朗氏は「諏訪大社の風鎮めの御神徳は朝廷が皇化政策の一環として「龍田風神」と同一神にしようとし、その際に「風祝」が作り出された。」という推測をしているが、私はそこまで複雑に考える必要は無いと思う。
私はただ単に中央とは違った神事を行っている諏訪の話が都で背びれ尾びれがつき、その際に「大祝」の存在から「風祝」というものが作り出されたのだと思う。」

(以下略)


参考文献
宮坂光明 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社 1992年。
鈴鹿千代乃、西沢形一編 『お諏訪さま-祭りと信仰』 勉誠出版 2004年。
寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神-カミ信仰の原像-』 岩田書院 2010
全文掲載http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=47258

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「諏訪地方に伝わる縁起譚の「諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」には、建御名方神がこの地に来て先住の地主神や諏訪湖の龍神(水の神)などの神々を征服して鎮座した、とその武威が強調されている。また、とくに鎌倉時代以降は西の八幡神と並び、霊験あらたかな軍神として大いに崇敬され、全国各地に諏訪信仰が広がり、諏訪神社が祀られるようになった。

 もともとが武威にすぐれた神格でなければ、軍神、武勇の神として崇敬を集めることもなかったはずである。そうでないと、記紀神話の”負け犬”的な神が、一方では日本を代表する軍神・武神であるという矛盾した現象の説明がつかない。

 諏訪神は、古くから狩猟神として信仰されてきた。その遺風は鹿の頭を神に捧げる上社の御頭祭(オントウサイ)に残っている。狩猟に使う弓や矢などの道具(武器)に宿る精霊ということから連想され、武威にすぐれた神、つまり、軍神としての信仰が始まったのであろう。単に狩猟神(山の神の一種)、諏訪湖に宿る龍神(水の神)にとどまっていれば、地味な地方神のままであっただろう。ところが、「武威にすぐれた神」のイメージが発展したことによって、諏訪神はいわば全国的な霊威神となった。そのイメージを高めたのが、神功皇后の新羅遠征のときの活動や、坂上田村麻呂の東征を守護したり、あるいはまた元寇のとき龍神として現れて大いに神威を発揮したという、軍神としての活躍の伝承である。」
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/takeminakata.html



宮坂喜十著『諏訪大神の信仰』に、「諏訪神社の風の祝」の章あり。
金刺(今井)信古(1818-1859)が著した『款冬園(ふきえん)』の、
 
「下社風の祝屋敷跡は友之町の南方流鏑馬馬場の内輪にありて今のあごなし地蔵のある所なり、風の祝の事、藤原清輔『袋草紙』にもみえたり…」

を取りあげて、諏訪の風神信仰を考察。

「(前略) この御室社は明治になるまで下社の摂社であった。遷座祭にあたって祝たちはまず御室社に参り、つづいて内御玉戸社、外御玉戸社の順で巡拝してから大祭の場に臨んでいる。この順序が重要で、御室が武居古信仰の中心であったことを示しているのである。
 長野県町村誌には「武居御室社、祭神不詳、東西十間、南北四間四尺、面積四六・六坪、祭日一月一日、三月十四日」とある。この祭日がかつての御室入り、御室明けをあらわすものであろう。現在はそこに小祠があるが、すでに諏訪大社の手を離れ、武居衆が大社に依頼して祭りを続けている。もう一つの問題点は御室社が八坂社などとあいまいに呼ばれていることだ。祠内に幣二つをまつり、八坂彦と合祀の形をとっているが、御室社であることは明らかである。古代祭祀の一つの滅びは、歴史の一つの消滅につながるだけに、大切にしていきたいものだ。
「源流は武居の御室」 この頃すでに諏訪の実権は金刺大祝の掌握するところで、大祝たる神権を背景に信濃一国に覇をとなえていたのである。そうした中で古信仰の伝承者たるタケイは風の祝の名で信仰第一の座を占めていたものと考えられる。」
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/kaze.htm


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三輪にとぐろを巻いた蛇三体を御室におき、それを核(萩組という)として風祝が籠もったとされる。
蛇はミシャグジー神の化身であろうという。『諏訪大明神絵詞』に登場する甲賀三郎の大蛇になる話の大元も、この御室の暗室から生まれでた話であろうと田中基は推測する。

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諏訪四社に阿蘇氏(諏訪氏)風祝が登場するのは、『日本書紀』完成の時代からであろう。持統天皇の指示でとなっているが、実際には不比等の指示ではないかと思えるのは、その最初から藤原氏の祖神である武ミカヅチ神を、タケミナカタ神の上に覆いかぶせて、神の名を交換しようとするためである。諏訪神は重層構造になっており、縄文からのモリヤ神をタケミナカタが押さえつけている構造を、記紀以後、中央がさらにタケミカヅチによって押さえつける、という教化策をとって、大風の元とされてきた諏訪湖(大穴)をふさぎこめ、あるいは氷室も作っていた可能性がある。

持統天皇の諏訪への思いは、遷都にまで向いていた。風鎮めの神事は持統天皇五年に敕によって行われた為、
風の祝または風祝の創設者は、持統天皇といえる。
其の後鎌倉時代に権大祝・諏訪祝と呼ばれる様に成り、更に後の世には権祝と呼ばれる様に成った。
しかしその背後には藤原不比等の意思が強く働いた可能性がある。
関東中臣氏の背後に存在した阿蘇氏の鹿島神宮設立と関係があるだろう。


東風谷早苗?
なんのこっちゃ??

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