●現状最古の直孤文
大阪府柏原市玉手町 安福寺内横穴墓群(玉手山古墳群)の割竹形石棺(境内で手水鉢として使われていた。現在境内展示) 4世紀?
日下八光 『古代日本の美と呪術』所収「装飾古墳の美」毎日新聞社 1976
森浩一「玉手山古墳群」『普及新版 日本歴史大辞典 第六巻』 河出書房新社 1985年
大阪府柏原市玉手町 安福寺内横穴墓群(玉手山古墳群)の割竹形石棺(境内で手水鉢として使われていた。現在境内展示) 4世紀?
日下八光 『古代日本の美と呪術』所収「装飾古墳の美」毎日新聞社 1976
森浩一「玉手山古墳群」『普及新版 日本歴史大辞典 第六巻』 河出書房新社 1985年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%89%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
画像大和の祭り日記サイト
http://blogs.yahoo.co.jp/nekozero54/53637121.html
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初期のものとてごく簡易な意匠になっているが、むしろこのほうが複雑でない分、かえってその派生分析には適している。
石棺に直孤文を描かれるものとしてはその後の福岡県・熊本県はぐんと意匠が高度になる。安福寺の次に石人山が古いのだが、意匠としての最高峰は大阪摂津の紫金山古墳のゴホウラ貝輪のものであると日下も書いている。日下は明治生まれの画家で、装飾古墳の復元画像に徹して活動した人であるので、その詳細まで分析した経験から、歴史学者や考古学者より随分鋭い大元にまで目が向った。
石棺に直孤文を描かれるものとしてはその後の福岡県・熊本県はぐんと意匠が高度になる。安福寺の次に石人山が古いのだが、意匠としての最高峰は大阪摂津の紫金山古墳のゴホウラ貝輪のものであると日下も書いている。日下は明治生まれの画家で、装飾古墳の復元画像に徹して活動した人であるので、その詳細まで分析した経験から、歴史学者や考古学者より随分鋭い大元にまで目が向った。
日下の分析と京大の小林行雄の分析の大きな相違は、小林が熊本の装飾古墳を体系化する中で直孤文の源流を帯・組み紐の組み合わせであるという意見にとどまるのに対し、日下はさらに遡って世界そして縄文時代から続く渦巻きや中国のトウテツ文、さらにはかわかつ同様に西欧の唐草・ロータスの影響にまで言及したところにある。
装飾・テキスタイルの源流は営々として一貫した観念=再生願望・神仙思想の源流としてそれ以前の新石器時代から!脈々と受け継がれてきたと考えねばならぬものであると断固として考えている。
特に直孤文は海外に事例がなく、なにかのモデルから切り取って複写したものではない、と考えねばならない装飾である。独自でありながら源流は太古の人類の記憶にまで遡りうるのだ。
4世紀からの大阪や九州長沙連(ながされ)古墳などでの直孤文開始の前に、まず岡山県吉備の孤帯文があり、こちらにはあきらかに直孤文とは違ううねる渦巻き帯の円弧の中に突起があり、その形状はまさにゴホウラ貝を切ったときの渦巻きの一辺に酷似する。そのために橋口達也は直孤文もゴホウラディスクの組み合わせではないかと考えた。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53364441.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53364441.html
しかしながらその突起の類似は吉備の特殊器台や亀型孤帯文石の装飾との比較に限り、直孤文にはもっと複雑な何者かの断片をちりばめる意匠の高度さがあって、孤帯文から直孤文が新たに生まれたことを感じさせるのである。
吉備の孤帯文に類似した3世紀の纏向遺跡から出た孤文円盤では、直孤文とも孤帯文とも違うなだらかで自然な、むしろ西洋の唐草のごとき優雅さが存在する。纒向の孤文円盤と直孤文が直接つながるかどうか筆者はいまだやや疑問がある。しかしながら紀元前3世紀以後中国にローマから入った唐草の連続性は、その後中国でさまざまの連続するテキスタイル、幾何学模様を生み出した。直孤文の連続を断ち切るかのような矛盾したデザインの基層には必ずや中国の神仙思想とともに輸入された連続する幾何学唐草がある。
そしてそれを見て、記憶し、真似しようとしたのが安福寺の石棺ではないかと思える。
つまり直孤文の始まりはそもそも唐草と渦巻きと、そして縄文後期からの貝の中に潜む奇妙な渦巻き形にあり、その渦巻きこそが再生する呪でありつづけた伝統が弥生・古墳前期にまでつながったと考えたいのである。
●佐紀陵山古墳の重要性
森浩一が最新刊の『天皇陵古墳への招待』筑摩書房 2011 で模写画像を紹介しているのが奈良県佐紀盾列古墳群の中の佐紀陵山古墳(日葉酢媛命墳墓に比定)の直孤文つき盾の埴輪である。(昭和42年に石田茂輔が宮内庁『書陵部紀要』に所収の「日葉酢媛命御陵の資料について」で発表した画像)
森浩一『天皇陵古墳への招待』より
森浩一が最新刊の『天皇陵古墳への招待』筑摩書房 2011 で模写画像を紹介しているのが奈良県佐紀盾列古墳群の中の佐紀陵山古墳(日葉酢媛命墳墓に比定)の直孤文つき盾の埴輪である。(昭和42年に石田茂輔が宮内庁『書陵部紀要』に所収の「日葉酢媛命御陵の資料について」で発表した画像)
森浩一『天皇陵古墳への招待』より
この盾の実物はおそらく靫編部の手になった皮製盾であろうが形状としては石上神宮所有の鉄盾に似ていた。
当時の流行の形状なのだろうが、それが九州の横穴墓や珍敷塚古墳に描かれた盾にもよく似ているのである。
この古墳からは直孤文鏡も出ており、景行天皇の行燈山古墳と相似形の古墳で、伝日葉酢媛陵墓ゆえに、筆者は葛城・息長の系統の人物と読んでいる。
当時の流行の形状なのだろうが、それが九州の横穴墓や珍敷塚古墳に描かれた盾にもよく似ているのである。
この古墳からは直孤文鏡も出ており、景行天皇の行燈山古墳と相似形の古墳で、伝日葉酢媛陵墓ゆえに、筆者は葛城・息長の系統の人物と読んでいる。
佐紀盾列の「たたなみ」とは盾を並べる儀式(盾伏しの儀)にちなむ地名で、林屋辰三郎はこの古墳群がみな南を向くことから盾節儀礼にそって造営されたと考えた。盾節舞いはこのときに靫編み氏族が舞ったか?
さらに日葉酢媛には石作連が石棺を作った記事が『新撰姓氏録』にあるが、彼らは尾張氏から出ていて、竜山や熊本宇土や和泉の箱作、讃岐石切り場近くに居住して石棺を切り出していたとも言われている(森)。
『播磨国風土記』では讃岐から移住した石作連大来(おおく)が揖保山の石宝殿の切り出しをしたことを思わせる記事もある。彼らが尾張氏を出自とすることと九州の宇土の石棺にかかわる吉備王子孫の葦北国造の孫の石棺とされる鴨籠古墳石棺や阿蘇ピンク石とのつながりを思わせる。筆者は熊本の直孤文と阿蘇ピンク石に囲まれた井寺古墳、あるいは江田船山古墳被葬者もまた尾張氏か葛城氏か火の葦北国造に近しいヤマト氏族の人物とにらんでいる。
さらに日葉酢媛には石作連が石棺を作った記事が『新撰姓氏録』にあるが、彼らは尾張氏から出ていて、竜山や熊本宇土や和泉の箱作、讃岐石切り場近くに居住して石棺を切り出していたとも言われている(森)。
『播磨国風土記』では讃岐から移住した石作連大来(おおく)が揖保山の石宝殿の切り出しをしたことを思わせる記事もある。彼らが尾張氏を出自とすることと九州の宇土の石棺にかかわる吉備王子孫の葦北国造の孫の石棺とされる鴨籠古墳石棺や阿蘇ピンク石とのつながりを思わせる。筆者は熊本の直孤文と阿蘇ピンク石に囲まれた井寺古墳、あるいは江田船山古墳被葬者もまた尾張氏か葛城氏か火の葦北国造に近しいヤマト氏族の人物とにらんでいる。
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直孤文は4~6世紀に隆盛し、突然消えてしまう意匠である。
デザインとしてはより簡単な同心円文や蕨手文よりも先に洗練された直孤文が出てくることがまず謎である。
さらに吉備でそでに楯築のような弥生墳墓からすでに洗練された形で登場し、さらに3世紀の古墳直前に纒向にいっそう洗練された孤文円盤が出たことがまずもって、デザインの進化の常識を打ち破ってしまっている。
しかし大和が後の世にも高松塚やキトラのような完成された壁画を九州に先んじて持ちえた流れからは、どうやら直孤文や孤文や孤帯文も日本人オリジナルではなかった可能性・・・招聘された大陸のデザイナーによった意匠の可能性もなきにしもあらずである。
デザインとしてはより簡単な同心円文や蕨手文よりも先に洗練された直孤文が出てくることがまず謎である。
さらに吉備でそでに楯築のような弥生墳墓からすでに洗練された形で登場し、さらに3世紀の古墳直前に纒向にいっそう洗練された孤文円盤が出たことがまずもって、デザインの進化の常識を打ち破ってしまっている。
しかし大和が後の世にも高松塚やキトラのような完成された壁画を九州に先んじて持ちえた流れからは、どうやら直孤文や孤文や孤帯文も日本人オリジナルではなかった可能性・・・招聘された大陸のデザイナーによった意匠の可能性もなきにしもあらずである。
葛城襲津彦ならばそれができたと考える。
外交官であり、船の管理者であり、伽耶日本府?の日本大使的な人物で、古墳に直孤文埴輪を多く持つ。鉄の管理者で阿曇を使って海人交易を牛耳った、河内王朝の直前の大和の海の王である。そしてなによりその系譜の祖が武内宿禰というウチツ臣を髣髴とさせていて、住吉の勇者であり、淀川を通路にしていた海人族の長であろう。ここに紫金山古墳の存在意味、そしてその後淀川に居城と古墳を作る日本海の継体の系譜、和迩・息長と同時代の古い大和氏族。紀ノ川の河口部から吉野までを占めていた縄文人の管理者・・・・
外交官であり、船の管理者であり、伽耶日本府?の日本大使的な人物で、古墳に直孤文埴輪を多く持つ。鉄の管理者で阿曇を使って海人交易を牛耳った、河内王朝の直前の大和の海の王である。そしてなによりその系譜の祖が武内宿禰というウチツ臣を髣髴とさせていて、住吉の勇者であり、淀川を通路にしていた海人族の長であろう。ここに紫金山古墳の存在意味、そしてその後淀川に居城と古墳を作る日本海の継体の系譜、和迩・息長と同時代の古い大和氏族。紀ノ川の河口部から吉野までを占めていた縄文人の管理者・・・・
それが雄略によって直孤文の源流を持つ吉備の造山古墳の下道王家とともにほぼ同時に滅ぼされ、それゆえに伝統の孤帯文に大きくばつをほどこされた石棺に眠る。
これはつまり消された王家ウチ氏族への河内王朝のしうちではあるまいか?
阿曇と隼人と葛城氏、さらに尾張氏の関係は、物部氏などを追いかけるよりも実は重要である。そして靫負を率いていた大伴氏がこれに×をして貼り付けられる唯一の河内王家の新しい武内宿禰=宰相だったことも付記しておきたい。それが大彦の墳墓とも言われる会津大塚山古墳の直孤文を解くキーワードになる。大伴氏には眷属として東国管理者だった靫負膳氏がいるからだ。
阿曇と隼人と葛城氏、さらに尾張氏の関係は、物部氏などを追いかけるよりも実は重要である。そして靫負を率いていた大伴氏がこれに×をして貼り付けられる唯一の河内王家の新しい武内宿禰=宰相だったことも付記しておきたい。それが大彦の墳墓とも言われる会津大塚山古墳の直孤文を解くキーワードになる。大伴氏には眷属として東国管理者だった靫負膳氏がいるからだ。
そう考えたとき、直孤文の意匠パーツのひとつと思われる貝が脳裏に浮かんでくるのである。
隼人や久米や阿曇ら海人族が縄文時代から運んだゴホウラ貝やイモガイやタカラガイの断面、あるいは貝輪を作るために切り刻んだ貝殻の残骸である。直孤文の原点はこれではないのか?
そこに渦巻き、唐草、女神のヒレ、組み紐、籠編み、靫編、蛇、蕨、西王母のティアラ、Y字、V字、木の股神などなどの永遠を思わせる神仙思想のパーツが重層的に組み合わされた究極の呪模様こそが直孤文だったのである。
隼人や久米や阿曇ら海人族が縄文時代から運んだゴホウラ貝やイモガイやタカラガイの断面、あるいは貝輪を作るために切り刻んだ貝殻の残骸である。直孤文の原点はこれではないのか?
そこに渦巻き、唐草、女神のヒレ、組み紐、籠編み、靫編、蛇、蕨、西王母のティアラ、Y字、V字、木の股神などなどの永遠を思わせる神仙思想のパーツが重層的に組み合わされた究極の呪模様こそが直孤文だったのである。
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