『日本書紀』垂仁天皇3年 新羅王子アメノヒボコの条
「是を以って近江国の鏡村の陶人は天日槍の従人(つかひと、つかえびと)なり」
 
同 雄略天皇7年末尾
「いまきの百済人の陶部高貴(すえつくりの・こうくゐ)その他工人を大和に定住させる」
 
 

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◆陶部(すえべ、すえつくりべ)
「陶部(すえべ・陶作部(すえつくりべ))とは、大化前代において須恵器の製造に携わった部(品部 Kawa)。
須恵器及びその製造技法は古墳時代に朝鮮半島南部から伝えられたとされ、5世紀初めには茅渟県陶邑(現在の大阪府堺市中区・南区付近)などで大規模な須恵器の製造が行われて、陶部の形成が行われたと考えられている。『日本書紀』の垂仁天皇3年(紀元前27年)条には、近江国鏡村に日本に渡来した新羅の王子天日槍の従者であった陶人がいたこと、雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。これを直ちに事実とすることには問題があるものの、陶部の工人(陶人)が新羅や百済の出身を多く抱えていたことの反映とみる考え方がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E9%83%A8
 
 
 
新羅の王子来訪の記述であるのに、陶部工人らは百済から新たに来たとされるのは、そもそも『日本書紀』の外国認識には錯綜があり、それが当時の海外国名認識であった=つまり国外状況にいい加減だったからだろう。
 
垂仁時代の記録も、雄略時代の記録も、多くの学識が思うに、『日本書紀』特有の「前倒し」好みであって、実際の来訪は、ほぼ飛鳥時代の崇峻~斉明時代の出来事であろうと考えられる。
百済からのそうした工人の贈呈は、歴史的に見てもあきらかに、半島が唐によって侵食されはじめた日本の飛鳥時代のできことであり、百済は最も危機的状況にあったので、倭国のヤマトに援助を求めたのである。その代償としての工人の送り込みであり、実際、そこから法興寺(飛鳥寺・元興寺)の建築が始まっている。
 
百済工人とは言っても、4世紀あたりで伽耶が滅びるときに伽耶の住民たちは新羅や百済や倭に四散しただろうから(日本に来た秦氏や漢氏が例)、新羅様式の陶器技術も持っていたはずである。半島はそれほど広くなく、当時は人も技術もないまぜになりやすかっただろう。そういうところも『日本書紀』外国認識をあいまいにしたかも知れない。ひとくくりに「韓人・呉人」とする場合も多い。
 
最初に今来渡来工人が入れられたのは、大阪の南部である。南河内や泉州一帯に彼らは住まった。それゆえに同じ大阪でも、やや気質の違う人々が多くなり、言葉や文化に影響した。
 
いわゆるこれが「葛居」「藤井」であったと思える。
 
 
 
 
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