2001.08_3 発行(株)学習研究社
http://kids.gakken.co.jp/rekishi/news/0108_3.html
●長江中下流域からダイレクトに来たイネ品種
「6月22日、
大阪府和泉市(いずみし)教育委員会(きょういくいいんかい)
弥生(やよい)時代の大規模(だいきぼ)環濠集落跡(かんごうしゅうらくあと)、
池上曽根(いけがみそね)遺跡【大阪府和泉、泉大津両市】と
唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡【奈良県田原本町】
から出土した約2200~2300年前の炭化米のDNAを分析(ぶんせき)した結果、
遺伝子(いでんし)のタイプが中国大陸で栽培(さいばい)されている水稲の品種(ひんしゅ)と一致したと発表した。
 
 朝鮮(ちょうせん)半島では見つかっていないタイプで、イネが中国から朝鮮半島を経由(けいゆ)せずに直接(ちょくせつ)日本に伝わったルートが存在(そんざい)したことを裏(うら)づける証拠(しょうこ)にあたるとして注目されている。中国から日本へ人や物、文化が直接伝来 した可能性(かのうせい)を示(しめ)す貴重(きちょう)な資料(しりょう)ともなりそうだ。
 

 
 
 分析を行った佐藤洋一郎・静岡大農学部助教授によると、池上曽根遺跡の炭化米17粒(つぶ)を分析、うち4粒からDNAを抽出(ちゅうしゅつ)できた。1粒が陸稲(おかぼ)栽培に適(てき)した熱帯ジャポニカ米で、3粒が水田耕作(すいでんこうさく)に適した温帯ジャポニカ米だった。DNAの塩基配列(えんきはいれつ)を調べたところ、この温帯ジャポニカのうち1粒に、中国・長江(ちょうこう)下流域(かりゅういき)に濃密(のうみつ)に分布(ぶんぷ)する在来種(ざいらいしゅ)と同じ遺伝子の塩基配列 があるのを確認(かくにん)した。調査(ちょうさ)した朝鮮半島の在来種55種類にはない配列という。唐古・鍵遺跡の炭化米(温帯ジャポニカ)1粒にも同じ配列が確認された。」
 
この情報は諸氏すでによくご存知のことと思う。
しかしふたつの遺跡でわずかに例証が2粒という点が心もとない。
 

●遺伝子から
1 ハプログループ(母方遺伝子)から
篠田謙一は、ミトコンドリアハプログループM8aを多く持つ集団は、漢民族が多く、その周辺の雲南少数民族やアイヌ、ベトナム、カンボジアの人々、朝鮮民族、日本人などははるかに少ないことを指摘している。つまり中国長江に4200年前と3500年前の二度の寒冷期に北西部バイカル湖方面から長江へ南下してきたM8a形質を多く持った漢民族が押し寄せて、長江以南の民族を四散させたことがここから推測可能である。
 
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2 Y染色体亜型(父方遺伝子)から
崎谷満は、黄河文明に起源を持つ漢民族にはO3e系統の亜型が特異的に分布し、これを持つ人口が膨張して従来型のO2系統を少数派に追い込んでいったと指摘。
O2系統には、O2a(華南・ベトナム・チベット山岳部),O2b(東シナ海沿岸沿いに朝鮮半島~秘ノン列島へ),そしてO1(台湾からフィリピン)がある。
 
 

●人類学・考古学から
九州北西部(有明海沿岸~博多)のイネと北東部(博多東部板付~遠賀川)のイネの遺伝子、栽培方法には相違があり、経路も時期も違っており、しかも来訪者の遺伝子は西では在来縄文と中国人との混生が見受けられ、混血して同居していたのに対し、東では半島人と在来縄文との混血が少なく、同居型ではなかった。その後のイネの伝播ルートも、西の人は九州を南下して太平洋から北上するのに対し、東の人々は日本海から東北へ向かっている。また西の水田が中国系であるに対し、東の水田はソウル近郊型であるとも指摘。
 
九州の北西部と北東部ではあきらかに別の民族が、別のイネを持ってきて、別の栽培方法、水田様式で栽培を開始していたわけである。
 
そして那珂川の西側で重要なことは、
1甕棺風習
2壁画装飾
3舟葬風習
4太陽信仰
東側では
1支石墓から周溝墓~古墳へのつながりがある
2遠賀川式土器とともに北上
というそれぞれの特徴があることである。
 
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つまり同じ長江から四散したグループでも、ダイレクトにいち早く長崎県や佐賀県、熊本県、鹿児島県に3000年前の縄文後期にやってきた先行グループと、遠賀川周辺に半島を経由してやや遅れて渡来したグループがあったことになるのではないか。
 
もちろん半島から有明海にも、半島海岸部式の釣り針や曽畑式土器は縄文時代に来ているわけで、当然、彼らの混棲もあっておかしくなかった。さらに近畿の二ヶ所の遺跡から出ている半島にはない遺伝子を持ったイネにしても、九州内部の隣接する地域での交渉があったために少数だが混じった可能性も考えうる。とにかく日本の日本海側は朝鮮半島渡来、九州南西部から太平洋は長江あるいは南島からの渡来、北部は古い時代の北方系縄文人と、いくつもの渡来が同棲していたと考えるべきだ。ルーツはひとつではなかったし、長江文明人の渡来も間違いなくダイレクトであったと見るのがこれからは整合である。これまでの京大中心の小林や佐原らが馬鹿にしてきた長江ダイレクト、縄文後期にすでに渡来ありという賀川光夫や明治大学系理論や人類学の鳥越らの論説は、これから見直されて当然である。
 
 
 
 
●安田が力説する抜歯=言霊思想の民族
この説は魅力的だが、まだ100%信じられるかどうか不明である。
抜歯風習は長江以南に多い少数民族やカンボジア、ベトナムなどのインドシナからはるか南洋諸島に広がる風習。

歯を抜くのは文字ではなく、言葉に魂を見る言霊思想が、海洋民族共通のもので、日本語もオーストロネシア膠着言語を基盤しているという点からも、一旦長江から南下した民族が、海をはるかに渡り歩きながら南米までたどり着いたという雄大な考え方である。

その経路のひとつには台湾から鹿児島やボルネオから伊豆諸島という、いわゆる環太平洋上のリング・オブ・ファイア列島をつないだ邂逅が日本で起きたということになるし、もっとはるかな視線では、北廻りで北米に向かった新モンゴロイドと彼ら古モンゴロイドが南米でペルーで再会するという、夢のようにロマンあふれる仮説にすら結びつく。
 
もっとも日本の縄文人も、考えてみれば九州・琉球の南方からの舟の民と、北海道・東北・関東まで南下した北方系縄文人が関東海岸部や富山湾で再会していた可能性も当然存在するわけである。

日本人のルーツはどこだっか?という論考はこれまで、二極的な単純視線ばかりであり、時に論考の対立や、民族的好き嫌いなどの主観論を生み出しているが、こうしてみてくると、やってきた民族は非常に多様であり、安田が言うとおり、多くの来訪者は、ふるさとで敗北し、追われてきたボートピープルなのであって、だからこそ日本の古代は対立の痕跡がない「和」の日本人を生んできたのだと言えるかもしれない。
 
 
参考 安田喜憲 『普及版 稲作漁労文明 長江文明から弥生文明へ』2013年版
 
 
 
 
最後に筆者から
日本の原風景を水田や棚田に求め、古代は稲作から始まったという一元論をよく耳にする。しかし現代の原郷と言われるこの水田風景が、日本中に定着した歴史はそれほど古いわけではない。日本の平民や渡来民族のすべてはコメなど食べていなかった。コメは奈良時代以後、国家の重要な資金源つまり輸出品なのであり、ほとんどの日本人は雑穀と粉食を糧として江戸時代までえんえんと生きてきたのである。
 
稲作による安定社会を言うのはあくまでも近畿の大和史観だけがそう言ってきただけのことで、それはつまり米を食えて来た貴族の歴史を中心に考える「エグゼ史観」である。コメはたんぱく質の多い植物で、つまりおかずには植物や魚介類で充分事足りた。ところが雑穀は動物たんぱく質や繊維をコメよりも数倍必要とするため、狩猟採集と雑穀・畑作は長い間切り離されないでやってきた。粉食文化・畑作文化は文字と牧畜と肉食を伴う北方系、あるいは大陸系の客観主義的な生き方をするのが常で、その大元とは西アジア遊牧民にある。

言霊を中心にした主観的でウェットな海洋民族であるわが国の国民的性質は長江からやってきたと言って過言ではない。つまり言い換えれば、今の攻撃的中国国家のようなのは大陸的・即物的・西欧的・侵略的・・・華北漢民族の性質なのである。
 
 
そして菜畑にいた長江人と縄文人のハイブリットたち=倭人は、その後甕棺とおともしどこへ行ったのか?
その候補地こそが曽根や唐古なのである。
 
ようするに日本海古代文化と違う彼らは、先に大和に入ったのだろう。
 
 
 

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