★すべて「断定はしない」と断っておく。
◆松尾大社由来
『本朝月令』
松尾祭事所引『秦氏本系帳』逸文
「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部大神なり。戌辰年(天智元年のことか?)三月三日、松埼日尾[又日埼岑と云ふ](まつざきひおorひさきのみね)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男、秦忌寸都理(はだのいみき・とり)、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女、秦忌寸知麻留女(ちまるめ)、始めて御阿礼(みあれ)を立てる。知麻留女の子、秦忌寸都賀布(つがふ)、戌午年(養老二年)より祝(はふり)と為す。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十四年。」
「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神(やますえの・おおぬしの・かみ)この神は近淡海国の日枝の山(比叡山)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用ひし神ぞ。」

『本朝月令』
松尾祭事所引『秦氏本系帳』逸文
「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部大神なり。戌辰年(天智元年のことか?)三月三日、松埼日尾[又日埼岑と云ふ](まつざきひおorひさきのみね)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男、秦忌寸都理(はだのいみき・とり)、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女、秦忌寸知麻留女(ちまるめ)、始めて御阿礼(みあれ)を立てる。知麻留女の子、秦忌寸都賀布(つがふ)、戌午年(養老二年)より祝(はふり)と為す。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十四年。」
「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神(やますえの・おおぬしの・かみ)この神は近淡海国の日枝の山(比叡山)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用ひし神ぞ。」

箇条書きすると、
1 天智天皇即位元年? 松崎日尾という山の頂上?に松尾の神降臨
2 大宝元年 (701) 秦都理がこれを松尾に移して奉祭し、知麻留女という秦氏の巫女が始めて神事を執り行った
3 養老二年 (718) 知麻留女の子、都賀布を神官として
4 以来その子孫が神官を世襲し、大神を祭ってきた
1 天智天皇即位元年? 松崎日尾という山の頂上?に松尾の神降臨
2 大宝元年 (701) 秦都理がこれを松尾に移して奉祭し、知麻留女という秦氏の巫女が始めて神事を執り行った
3 養老二年 (718) 知麻留女の子、都賀布を神官として
4 以来その子孫が神官を世襲し、大神を祭ってきた
※松崎日尾・日埼岑・・・・・京都市左京区松ヶ崎?あるいは松尾山頂上?はたまた日御碕?
※胸形に坐す中部大神・・・九州宗像三女神のうち中津宮の市杵嶋(比売)命
※鳴鏑・・・・・・・・・・・・・・・・やじりが二股に分かれた、音のなる矢。カブラヤ。
※胸形に坐す中部大神・・・九州宗像三女神のうち中津宮の市杵嶋(比売)命
※鳴鏑・・・・・・・・・・・・・・・・やじりが二股に分かれた、音のなる矢。カブラヤ。
まず気がつくのは神の降臨が天智即位の頃と新しいこと、分祠して祭ったのも701年と、神社創建伝承にしては随分新しい話になっていることから、松尾大社の歴史は葛野に酒公一族がやってきてから150年ばかりあとのことだということ。そもそもその元宮の所在地を未知の場所にしていること自体あやしい。
宗像の海の中の島の神が祭られたのであるから最初の降臨地もやはり海に面した岬かなにかでなかったか?筆者は出雲日御碕がふさわしく見えるが?あるいは京都市北東部には出雲氏がいたので、秦氏が彼等を飲み込んでいった結果、出雲の聖地が出てきたか?
比叡山の日枝の神は今は延暦寺鎮護として知られるが、すでに延暦寺以前から日枝神はいたことがわかる。祭る氏族は不明だが推測するに鴨一族か?この由来記は秦氏が松尾を聖地とするために、先住の氏族を取り込んで、既成の神を没収簒奪、あるいは政略婚姻で同族化した痕跡であろう。ここには秦氏自身の神が登場していない。
●つまり、秦氏にはどうも最初渡来したときから独自の神は持たない一族だった可能性がある。それは外国から来たのだから日本的な神祇信仰を持っていないということで特に不思議ではない。入植して在地の風習として同化したか?これは重要である。
確かに広隆寺は仏教寺院であるし、河勝は進んで太子から仏像を譲り受けているし、境内の中にあった大酒神社にしても秦氏がというよりも、配下の工人たちが祭った可能性がある。やはり秦氏は半島にいるときから仏教の信奉者ではあっても氏族の祖霊や神を持っていない?
なお、酒の神というのは「裂け」「避け」で開闢と「さえの神」双方の駄洒落である。
別に酒が最初に松尾でということではない。酒の開祖は「ススコリ」と、ちゃんと記録がある。
「酒公」「さけのきみ」「はたのきみ・さけ」などの「酒」も当然そう。意味は開祖、守護者、祖人。
松尾の読みは「まつのお」。
松は朝鮮で王。その尾で末端氏族の意味か?
百済王家も松を名乗る。
松は渡来した朝鮮民族のステータスだったのでないか?
地名の松島、松木、松井、松山、松田。など。勝手な想像である。
別に酒が最初に松尾でということではない。酒の開祖は「ススコリ」と、ちゃんと記録がある。
「酒公」「さけのきみ」「はたのきみ・さけ」などの「酒」も当然そう。意味は開祖、守護者、祖人。
松尾の読みは「まつのお」。
松は朝鮮で王。その尾で末端氏族の意味か?
百済王家も松を名乗る。
松は渡来した朝鮮民族のステータスだったのでないか?
地名の松島、松木、松井、松山、松田。など。勝手な想像である。
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◆『本朝月令』「秦氏本系帳」所伝
「ある秦の女、葛野河で洗濯中に一本の矢が流れてきた。持ち帰り「戸の上」?に置いていたら、夫もいないのに懐妊し男子を授かった。家族は怪しんで、やがて男子が物心ついた頃に一族郎党を集めて酒宴を催したが、このときに男子に盃を渡して「この中で父と思う人にその盃を渡せ」と問うた。男子は誰にも渡すことなく、例の戸の上に置かれた矢を仰ぎ見ると、雷公と変化し屋根を突き破って昇天して消えた。」
「ある秦の女、葛野河で洗濯中に一本の矢が流れてきた。持ち帰り「戸の上」?に置いていたら、夫もいないのに懐妊し男子を授かった。家族は怪しんで、やがて男子が物心ついた頃に一族郎党を集めて酒宴を催したが、このときに男子に盃を渡して「この中で父と思う人にその盃を渡せ」と問うた。男子は誰にも渡すことなく、例の戸の上に置かれた矢を仰ぎ見ると、雷公と変化し屋根を突き破って昇天して消えた。」
これは『山城国風土記』逸文の「丹塗矢伝説」つまり鴨氏の伝承とまったく同じである。
「賀茂建角身の娘、玉依日売が石川の瀬見の小川で用を足していると丹塗矢が流れてきて懐妊。父賀茂建角身はいぶかしみうたげを催し、「父と思うものに酒をつげ」。子どもは酒を天に向けて差し出すと屋根を突き破って昇天」
つまりこれも松尾秦氏が先住鴨氏を取り込んでしまった例である。
鴨氏の祭神は「雷の神」であるから、松尾にも雷神は取り込まれていることになる。
こうなると松尾大社とは秦氏の山背旧族懐柔の象徴的記念碑である。
しかし、ここでもやはり秦氏独自の神の名前はまったく登場しない。
鴨氏の祭神は「雷の神」であるから、松尾にも雷神は取り込まれていることになる。
こうなると松尾大社とは秦氏の山背旧族懐柔の象徴的記念碑である。
しかし、ここでもやはり秦氏独自の神の名前はまったく登場しない。
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◆松尾坐月読神社
壱岐の月読神社の分家である。渡来するときに取り込んだ壱岐の海人族(安曇や宗像?)の神を秦氏が持ち込んだと見られる。
『日本書紀』顕宗天皇三年二月
「阿閉臣事代、命をうけ任那に行った。これに月神が人に憑いてこう言った。「わが祖であるタカミムスビが天地を作ったことがある。民地=山城のこと?にわが月神を祭れ。そうすれば福慶があるだろう」
事代が国に帰りこれをお上に申し上げた。それで葛野の歌荒樔田(うたあらすだ)に月読神社を建てた。壱岐の県主の先祖である押見宿禰が祠に仕えた。」

壱岐の月読神社の分家である。渡来するときに取り込んだ壱岐の海人族(安曇や宗像?)の神を秦氏が持ち込んだと見られる。
『日本書紀』顕宗天皇三年二月
「阿閉臣事代、命をうけ任那に行った。これに月神が人に憑いてこう言った。「わが祖であるタカミムスビが天地を作ったことがある。民地=山城のこと?にわが月神を祭れ。そうすれば福慶があるだろう」
事代が国に帰りこれをお上に申し上げた。それで葛野の歌荒樔田(うたあらすだ)に月読神社を建てた。壱岐の県主の先祖である押見宿禰が祠に仕えた。」

壱岐県主・押見とは想像するに忍海氏の人か?
阿閉臣は伊賀国阿閉郡が在所の氏族で、おそらく半島へ行く途中立ち寄った中継地の壱岐で月読信仰を知り、感応したのだろう。それを是非朝廷の側に祭りたかったのだろう。それで壱岐の祭祀氏族がすでに葛野にいたのでお上は松尾の「うたあらだ」の地に祠を建てた。
しかしここには秦氏は一切登場しない。
ただ壱岐の海人族が松尾の近くに先住していたことが想像できるだけである。
阿閉臣は伊賀国阿閉郡が在所の氏族で、おそらく半島へ行く途中立ち寄った中継地の壱岐で月読信仰を知り、感応したのだろう。それを是非朝廷の側に祭りたかったのだろう。それで壱岐の祭祀氏族がすでに葛野にいたのでお上は松尾の「うたあらだ」の地に祠を建てた。
しかしここには秦氏は一切登場しない。
ただ壱岐の海人族が松尾の近くに先住していたことが想像できるだけである。
北條勝貴は秦氏が渡来するときに壱岐で月読を知って、宗像か安曇の氏族を取り込んで連れてきたかもしれないと書いている。壱岐・対馬は重要な中継港である。そこを無事に往来するには彼等海人族の援けは不可欠。まず渡海貿易を考えれば最初に取り込んでおくべきである。それが安曇なのか宗像なのかは知らないが、ずっとあとになって対馬を秦氏を名乗る宗氏が所領とする理由もこういうところにあったのかもしれない。月読は壱岐が最も古い。壱岐の祖人押見宿禰を祭祀者にしたのであるから間違いないだろう。
秦氏はやがてここに聖徳太子の霊魂を祭った。月が太陽の影の存在で、摂政を意味するのだろう。
海上交通の神である証拠は丸い石=神功皇后鎮懐石?があることからわかる。
秦氏はやがてここに聖徳太子の霊魂を祭った。月が太陽の影の存在で、摂政を意味するのだろう。
海上交通の神である証拠は丸い石=神功皇后鎮懐石?があることからわかる。
◆蚕ノ社
『続日本紀』大宝元年四月には月読神とともに木嶋神、波都賀志神などが並んで書かれ、中臣氏にこれらを与えたとある。それ以前に木嶋坐天照御霊神社(蚕ノ社)が誰の奉祭する社だったかはわかっていない。少なくとも当初、秦氏とは無縁である(水谷千秋)。
蚕が祭られたのは中世以降、繊維問屋の三井家による新しい信仰である。
三井家が新羅系ゆえの秦=機織り語呂合わせ由緒を求めてのことだろう。
断定はしない。
『続日本紀』大宝元年四月には月読神とともに木嶋神、波都賀志神などが並んで書かれ、中臣氏にこれらを与えたとある。それ以前に木嶋坐天照御霊神社(蚕ノ社)が誰の奉祭する社だったかはわかっていない。少なくとも当初、秦氏とは無縁である(水谷千秋)。
蚕が祭られたのは中世以降、繊維問屋の三井家による新しい信仰である。
三井家が新羅系ゆえの秦=機織り語呂合わせ由緒を求めてのことだろう。
断定はしない。
「あまてるみたま」とは天皇家オンリーのアマテラス以前に、各地の先住氏族が祭ってきた太陽神=祖霊である。近畿全域に存在する。木嶋の場合、それが誰だったのかは難しい。秦氏に同族化した氏族で思い浮かぶとすれば、壬生、丹生、阿蘇、土師、尾張などが思いつく。「このしま」=「きじま」とするのなら阿蘇氏がここにいたのかも知れない。松前健は尾張氏の太陽神・・・(つまりニギハヤヒだろう?)と書いている。不明。とりあえず秦氏渡来以前からここにあった神社であろう。断定はしない。
ちなみに尾張氏だったとするならば、ここは丹後の元伊勢や若狭の籠(この)神社と同じ神=豊受大神?で、それがニギハヤヒ?となるか?不明。いずれにせよ海人系ではあろう。秦氏はまずもって他の氏族を毛嫌いしたり、排除したりはしない氏族であろうと思う。それは彼らが軍事武力よりも商業経済の氏族だからだ。だからこそ日本最大の氏族になったのだし、「ゆうづう」の効く、融資氏族だったといえよう。いわば銀行のようなである。氏族との喧嘩の話は皆無である。(大生部は部民だった)
これらの先住氏族の社が秦氏に同化していくのは、山背葛野に秦氏が入ってからわずか100年間のことである。どんどん秦氏の傘下に氏族は入っていった。殖産興業氏族の面目躍如である。
筆者は河勝以前のエピソードと聖徳太子関連エピソードは事実かどうか一応疑っている。河勝が実在したのかどうか、大津父がいたのかどうか?さて、とりあえずは疑ってみるほうがいいかも知れない。モデルはいたであろうが。飛鳥時代には蘇我氏とも裏で通じていただろう。さらに奈良時代には藤原氏とも通じたことだろう。秦氏はアメリカを支えるユダヤ系・イタリア系、最近ではアラブ系企業のような氏族で、表立っていくさには関与しない。つまり「なんたらの商人」に近い存在だった気がする。三菱とか三井はかつてよく似ているのかも知れない。そしてほとんどは大蔵官僚だった。官僚と財閥と仏教による祭司統一官僚が秦氏である。したたか。オリジナル神祇を持たなかった、というよりも既成の神祇・祭祀を仏教の下に取り込み、コントロールするために招聘されたというのが正しい見方かもしれない。
シビリアン・コントローラーとでも言おうか。なべつね?しょうりき?
次回、園韓神と稲荷神
参考文献 水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』文藝春秋 2009
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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

コメント
コメント一覧 (1)
すごい!!感動しました!!!
ありがとうございます<img src="https://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_s34.gif"><img src="https://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_s357.gif">
kawakatu
が
しました