大塚台地遺跡
熊本県宇城市松橋町前田
弥生時代後期~古墳時代
宇城市が大塚台地遺跡の保存を決定
宇城市の災害公営住宅の建設予定地で遺跡が発掘されその保存のため建設が遅れることになります。30日に発掘された大塚台地遺跡からは、弥生時代末期の地域の有力者や住民の墓31基が見つかりました。この地区では2019年までに30戸の災害公営住宅が建設予定ですが、教育委員会が遺跡の保存を決めたことで工期が1年遅くなる見込みです。「復興の妨げになると言われるが、これをきっかけに地域の成り立ちや地域、郷土への誇りを持てるように皆さんに理解してもらいたい」(宇城市教育委員会)この一帯では弥生時代の土器が見つかっていて、ことし9月から本格的な調査が行われていました。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171201-00000003-rkkv-l43
宇城市松橋と言えば緑川沿線で、西に阿蘇ピンク石切り出し場のある宇土市を控え、東に山都町、宮崎県高千穂町を置く立地。筆者の訪問記憶では、下益城郡城南町に塚原古墳群があって、周辺に横穴古墳群もあり、徐福伝承のある土地柄。阿蘇ピンク石を用いた石室を持つ井寺古墳も近い。古くから渡来の多くやってきた場所である。
阿蘇ピンク石石切り場のある馬門(まかど)への入り口にあたるのが松橋町曲野交差点で、石切り場の真下に位置するのが大塚台地である。
松橋(まつばせ)は例の松橋冤罪事件もあったように、官憲にそうされる埒外の漂泊民が多かったところでもある。記憶が正しければ、あのあたりには畳表の材料となるイ草の産地であったはず。イ草やタバコ栽培とその民については、渡来漂泊民との関係を考察してきたが、いまだ不明。
八代・葦北に国造が入る前には、すでにこのあたりには多くの弥生渡来人の居住地があったはずで、ピンク石切り出しの工人や、特殊な栽培植物栽培農家の出現と彼らに、なんらかの因果関係はなかったとは思えないわけである。
そういえば、大野巌古墳の石室が煤で汚れた理由も、確か、石室を住まい(アジール)とした漂泊民がいたためだったと聞いている。全国的に古墳の横穴や、千穴と呼ばれる横穴墓などが、サンカなど漂泊民の住処となっていたことは筒井功や三角寛の著作に詳しい。そうした流れが、明治前後だけの出来事ではなく、古く古代からの敗者、流懺の歴史と関わっていた可能性は否定できない。
近代初頭のいくつかの冤罪事件に、サンカのような漂泊の埒外者への差別から生まれたケースがなきにしもあらず。それが直接古代史とつながるのかどうかはいまだ確実性はないが、遺跡や古墳が彼らとなにかリンクしていた気がするのである。
大塚台地遺跡は熊本県の先の大地震後に発見されており、仮設住宅建設予定地だった地域にあたるため地元はそれが無理となってやや困惑しているようだ。予算的にも非常に微妙な遺跡でもある。復興と歴史のどちらをとるかでさまざま政治的な動きもあっただろう。しかしこのコースは、高千穂を越えて洞穴縄文遺跡のある大分の竹田市とも通じており(県道8号)、古くは最古の土器・曾畑式土器などが熊本から竹田へ運ばれたルートでもあっただろう。それが日本に最古の半島系土器の入ったコースである。緑川沿線~阿蘇は日本最古の交易通路のひとつだったのだ。
また、南下すれば球磨川で、人吉以南の熊襲居住地と、北部九州との境目だったのであり、吉備や大和から靫負集団が入る地域だったことも重要である。中世には猿丸太夫集団もここを通り舞踏を伝えている。芸能の漂泊者がここを通ったのであるなら、その道は古代渡来文化が通った道であったはずなのである。
また石工が多く、通潤橋は有名である。石橋の始まりを中世に求めるか、あるいは回船・外回り航路の発達する近世に求めるかは諸説あろうが、古くから知られていた通路が、多く、漂泊者や敗北者によって切りとおされたものだったことは否めまい。倭人伝以来、弥生の倭国の道は草深く、人跡未踏であった。そこを誰かが、なんらかの理由で、切り開かねば、その後の文化の広がりは考えにくい。
熊襲の土器でさえ、そうした道を通じて点々と盆地伝いに北上している。
東海地方のパレス式土器は、伊吹山を越えて近江琵琶湖経由で纒向に入るのである。その東海地方の人や文化には、さらに東の伊豆や相模やらの人と文化もすでに混入していたのであろう。越境する文化を見つめていくと、全国にそうした古い通路が築かれ始めたのが弥生後期だったはずである。
筆者が考古学の発見から気付かされてきたのは、そうしたその後の文化移入経路としての現在の道である。鉄を探したり、石を探して、人々は内陸に道を切り開いていっただろう。それが今、私たちが利用する幹線道路になっているのである。そしてその幹線道路が、素晴らしく整備され、拡大化された立派な場所よりも、むしろ旧態のごとくに開発から取り残されたような雰囲気が残る場所にこそ、遺跡や古墳が出るということも大事である。なぜこんな立派な国道なのに、そこだけが狭く、あるいは迂回して作られたのかなど、実は不便だと想うことが、そのままそこに住み続け、新文明を拒絶したある特殊な事情の隠されているのだということではあるまいか?

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