以下、長文引用。
『雍州府志』
【八幡宮】 男山石清水の地にあり。男山、あるいは雄徳山と称し、また鳩の嶺と号す。欽明天皇三十一年冬、肥後國菱形の地辺、民家の児、三歳の時、神託して曰く、我はこみれ人皇十六代誉田八幡麻呂なりと。ここにおいて勅使を差し、豊前國宇佐の宮に鎮座す。しかうして八幡と称す。一説に、昔、白幡四つ、赤幡四つ、天より筑前國那珂郡筥崎に降る。すなはち、その処に松を植えて、標とす。その跡、今に至りて存す。
【八幡宮】 男山石清水の地にあり。男山、あるいは雄徳山と称し、また鳩の嶺と号す。欽明天皇三十一年冬、肥後國菱形の地辺、民家の児、三歳の時、神託して曰く、我はこみれ人皇十六代誉田八幡麻呂なりと。ここにおいて勅使を差し、豊前國宇佐の宮に鎮座す。しかうして八幡と称す。一説に、昔、白幡四つ、赤幡四つ、天より筑前國那珂郡筥崎に降る。すなはち、その処に松を植えて、標とす。その跡、今に至りて存す。
これによりて、八幡の号を得といふ。伝えいふ、貞観元年秋七月、八幡太神、鳩の峯に移る。はじめ、釈行教、南都大安寺に居す。この僧、俗種、武内大臣の裔なり。かつて貞観元年宇佐の神祠に詣し、一夏九旬、昼は大乗経を説き、夜は密咒を誦す。一夕、夢中に太神告げて曰く、久しく法施を受く、師に離れんことを欲せず、師王城に帰らば、我もまた随ひ行き、王城の側に居て、まさに皇祚を護るべし。
教、やうやく山城州山崎に到る。その夜、また、夢中、太神告げて曰く、師、我が居る所を見よと。覚めてこれを見れば、東南男山鳩の峯の上、大光を現ず。教、晨を凌ぎて、光を発するの地に到る。実に霊区なり。教、すなはち二事を録し、表をもってこれを奏す。
帝、すなはち木工寮権允橘良基に詔したまひ、宇佐の祠規に准じて、六宇の新殿を造らしむ。すなはち正殿三宇・外殿三宇、合せて六宇なり。正殿三座、中は八幡宮、すなはち応神天皇なり.東は気長足姫尊、すなはち神功皇后なり。西は比口羊(ひめ)大神、すなはち玉依姫なり。その社規、魏々然たり。嵯峨院、源姓を諸皇子に賜ふ。すなはち八幡宮をもって氏神としたまふ。この社をもって、本朝第二の宗廟とす。
山下第一の鳥居、八幡宮の額は、藤佐理卿の筆跡なり。山上狩尾神社は、これ当山地主神にして山腹の護國寺薬師は、八幡勧請以前より当山にあるところなり。行教の弟、僧正益信、護國寺の検校たり。同じく俗姪、安宗、別當たり。はじめ宇佐より従ひ来る紀氏ならびに大神氏、たがひに神職を勤む。古へ八社家あり。善法寺・田中・新善法寺・壇・園・西竹・東竹等、これなり。検校・別當の両職は、すなはち勅任なり。この中、多くはこれ紀氏にして、武内の裔なり。大神氏は絶ゆ。今、伶人山井・近江等、その余流なり。八社家のうち、田中は、もと、護國寺の別當たり。しかれども、今においては、別にを置きて護國寺を守らしめ、みづから八幡宮の社家となり、禁闕の祈祷を勧む。
善法寺・新善法寺は、公方家の祈祷を修す。善法寺・田中・新善法寺、八幡においては三門主と称す。各々裘代を著す。行願寺の行円等もまた、これを著す。故に、世に、革堂上人と称す。しかれども、神社においては革を忌む。故に、裘代と称す。その衣色、濃紫にして、黒を帯ぶ。僧正著すところの緋衣と大きに同じくして、小しき異なり。これによりて、謬り伝へて、三門主僧正にあらずして緋衣を著すといふ。
毎年二月・十一月初の卯の日、神楽あり。禁裏の御神楽に准じて、伶人山井・多・豊(ぶん)・安陪等、これを勤む。同じく八月十五日、放生会あり。伝えへいふ、神功皇后三韓を征する時、多くの人命を断つ。故に、魚鳥を放つ。追薦の徴意に比して、当山においてこれを修するものなりと。この法会、社僧、最勝王経を講ず。この経の中、放生の事あり。故にこれを修すといふ。元正天皇養老四年、はじめて執行したまふ。その後、久しく絶ゆ。
社家の内、田中、特にこれを嘆き、東武に請ふ。延宝七年、放生会の料、禄若干を下賜、再び廃礼を興す。毎年、上卿・参議・弁・六府ならびに諸役人等、参向してこれを勤む。その余の神事、枚挙に遑あらず。神領、今において六千七百石余あり。社家の説に、この地、もと久世郡にして、八幡社のある所は、久世郡科手郷に属す。およそ、男山の麓、河原村より以南、綴喜郡なり。旧記の載するところ、各々然り。近世、誤りて綴喜郡とするものか。
【若宮】 同処、本社の艮隅にあり。応神天皇の皇子にして、大鷦鷯尊を祭るところなり。すなはち、仁徳天皇これなり。
【若宮殿(にゃくうどの)】 若宮の右にあり。これ、応神天皇の姫宮なり。
【水若宮】 若宮の左にあり。これもまた、応神天皇の季子、菟道稚郎子(うぢわかいらつこ)にして、宇治皇子と号する、これなり。
【住吉社】 本社の北ににあり。
【武内社】 本社内殿西北の隅にあり。これ、武内大臣を祭るところにして、上高良明神と号する、これなり。
【高良社】 八幡山下にあり。筑前国高良山よりこの処に移る。西の一座は住吉を祭る、東の一座は武内を祭るものなり。これを下高良明神と称す。武内大臣、千珠・満珠両顆をもって海に投ず。故に、あるいは玉垂命と号す。およそ、この社、船の形を表して、これを建つるものなり。
【狩尾社】 八幡山の西にあり。これ、国常立尊・大己貴尊・天児屋根命の三座を祭るところなり。男山地主神にして、八幡太神遷座以前の勧請するところなり。このほか護國寺ならびに宝塔院、合せて三所、共に同じく然り。
【神宮寺】 八幡山石清水の麓にあり。真言宗にして、八幡宮の供僧たり。光仁帝の時、はじめて八幡比売神宮寺を造ると。けだし、この寺か。
【薬師寺】 八幡の山腹にあり。本尊薬師は、すなはち、当山の地主なり。大江匡房卿゜、疾病を祈る。平復の後、脇侍十二神将を造り、本尊の左右に置く。匡房卿の願文、この寺火災に罹る時、鳥有となる。惜しき哉。古へ、田中、この寺の別当たり。今、真言宗の僧をして、交々これを守らしむ。
【足立寺】 男山の西にあり。樟葉村の南より山に登るの路なり。和気清麻呂、道鏡が怒りに触れて、脚の筋を断ち、紫陽に放たる。宇佐八幡の加護によりて、両脚たちまち癒えて、歩行、故の如し。ここにおいて、足立寺を創す。八幡宮還幸の日、この寺もまた、この山に建。今、寺は絶えて、山の名となる。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8f21e01014bedb27401ce2a3b9052e38
波多野義通の母は藤原師綱女で、師綱の母は師忠女である。
これも、どこかで絡んできそうなことである。
これも、どこかで絡んできそうなことである。
中原師元 と 富来氏の先祖永井氏
豊後紀氏の代表者と言うべき富来氏の先祖・永井祐安は、中原師元の養子になっていた!
…ということは、中原師元の養子である中原祐安=清原祐安(実・清原祐隆息)と同一人物である。
清原祐隆の息ということは、あの清原頼業の弟となるのではないだろうか。
清原祐隆の息ということは、あの清原頼業の弟となるのではないだろうか。
建久中、大友能直に従って下向し、富来に住し姓を富来に改めている。初代実貞は紀祐安男で、永井 石見守,富来左衛門尉と称し富来氏系図によると1 紀長雅・秦氏四子」とある。ということは、初代の実貞=祐安の息である。永井を称していたが、豊後の富来に住んで富来と名乗った。
ここで、中原氏・清原氏・紀氏・永井氏が祐安であり、その人物が富来氏の先祖になっていたわけである。
確か、平田氏にもなっていたように記憶する祐安。
なんて、たくさんの顔を持っている人物であろう。
外記補任には『権少外記の仁平3年から大外記・従五位下の久寿2年』まで記載がある。
大友能直の養父は中原親能であるし、実母は波多野氏の利根局である。そして本姓は近藤氏となっており、wikipediaによると、『近藤氏は、藤原秀郷あるいは藤原利仁の子孫と称する一族。由来は近江国(滋賀県)の藤原氏とされる。』そうなのだ。
ここで、中原氏と大友氏と近藤氏と波多野氏が繋がっているのである。
また、先ほど上記で「紀氏」が出てきたが、webページにあったこの記事が面白かったのでご紹介したい。
https://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/11799136.html
https://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/11799136.html
近江国の紀氏といえば、木村氏 (一部省略)
近江国蒲生郡木村(のちの滋賀県蒲生郡蒲生町木村、現在の同県東近江市木村町)が発祥。
12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る[注釈 1]木村成綱は紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説をとっている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱を佐々木経方の後裔[注釈 2]とし、かつ、経方の次男行定の母を紀盛宗の娘としていることから、『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。
12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る[注釈 1]木村成綱は紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説をとっている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱を佐々木経方の後裔[注釈 2]とし、かつ、経方の次男行定の母を紀盛宗の娘としていることから、『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。
近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市堅田地区)の人に、弓術出雲派の吉田重綱の弟子で、寿徳派の創始者木村寿徳がいる。元は猪飼氏を称していたとされる。
また、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もある。
たとえば、近江国蒲生郡木村発祥は、紀朝臣成高の後裔だ。また有力な木村一族に近江源氏佐々木氏の流れがあるが、これも紀氏に関係している。佐々木氏の祖源成頼から六世の末佐々木成俊が、近江国伊香郡木村に因んで木村を称したが、祖母が紀氏の出身であったこともあって、佐々木の姓を木村に改めたとされている。のち、佐々木宗家が京極・六角と分かれたので、木村氏もこの両家に分かれて属した。
豊臣秀頼を守り、真田幸村らと徳川の大軍に対し力戦奮闘した木村重成、また加藤清正の筆頭家老・木村正勝はこの一族の出といわれる。
他流では、下野国都賀郡木村発祥の秀郷流佐野氏系足利一族、摂津国武庫郡本庄村青木の古代氏族物部氏の末裔がある。さらに紀伊の名族鈴木氏流、古代名族日下部氏流、服部氏流などがあり、それらの支流もきわめて多い。
家紋は出自の違いで異なり、近江源氏佐々木氏流は「目結」だ。藤原系足利氏流は左三つ巴、日下部氏流は丸に違い矢、服部氏流は松皮菱などを代表紋としている。
~~~*~~~
実に興味深い「紀氏」と「木村氏」の関係とその周辺。
清原も、一井も櫟も櫟井も市井も関係がありそうなのである。
近江国にての紀氏の荘園は、以下のページに詳しい。http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
実に興味深い「紀氏」と「木村氏」の関係とその周辺。
清原も、一井も櫟も櫟井も市井も関係がありそうなのである。
近江国にての紀氏の荘園は、以下のページに詳しい。http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
九里氏と関係がありそうなところをピックアップした。
近江八幡市
木村氏(安倍氏・佐々木氏流)「佐々木神宮職」を相続したもの
・蒲生郡木村より起こる
・蒲生郡木村より起こる
・佐々木行定は母姓を冒して木村権守紀道政という
・佐々木宮神主 家紋:四目結または釘貫
・佐々木宮神主 家紋:四目結または釘貫
・木村源三成網は佐々木庄に住し姻戚上の関係より
佐々木とも云う、源姓を称した
佐々木とも云う、源姓を称した
・木村重成葉豊臣秀頼を助け活躍した青年将校、24才で戦死
宇多天皇―敦實親王―雅信―扶義―成瀬―義経―┐
│
┌───────────────────────┘
│ 紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔)
│ ‖ ※1 ┌成経
│ ‖―木村行定─┌定遠→成俊→資経→成経─├俊綱→宗綱
│ ‖ 従5位下 │ │
└──佐々木経方近江守 └定道太郎太夫 従5位下 └木村源三成綱※2
近江国惣追捕使 佐々木宮神主 (佐々木姓)
・・・・・・・・・・・
?「日牟禮八幡宮」旧:県社・別表神社
・祭神:応神天皇・神功皇后・比賣神(宗像女神)
・創建:伝131年
・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時
武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。
・鎮座地:近江八幡宮内町257
・祭神:応神天皇・神功皇后・比賣神(宗像女神)
・創建:伝131年
・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時
武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。
・鎮座地:近江八幡宮内町257
?「大嶋神社奥津嶋神社」旧:県社・式内社
・祭神:大国主神・奥津島比売命(宗像女神)
・創建:伝成務天皇の時代
・治世に武内宿禰により勧請されたとされる
・鎮座地:近江八幡市北津田町529
・祭神:大国主神・奥津島比売命(宗像女神)
・創建:伝成務天皇の時代
・治世に武内宿禰により勧請されたとされる
・鎮座地:近江八幡市北津田町529
?「長命寺」天台宗系単立
・山号:姨綺耶山
・本尊:千手観音・十一面観音・聖観音
・創建:伝 619年
・開基:伝 聖徳太子
・第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の下に
「寿命長遠諸願成獣」と彫り長寿を祈願した。
このため宿禰は300才の長命を保ったと伝えられる。
・住所:近江八幡市長命寺町157
・山号:姨綺耶山
・本尊:千手観音・十一面観音・聖観音
・創建:伝 619年
・開基:伝 聖徳太子
・第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の下に
「寿命長遠諸願成獣」と彫り長寿を祈願した。
このため宿禰は300才の長命を保ったと伝えられる。
・住所:近江八幡市長命寺町157
?「沙沙貴神社」=「佐々木神社」式内社
・祭神:宇多天皇・敦實親王・大昆古神
・創建:927年以前
・鎮座地:近江八幡市安土町常楽寺1
・祭神:宇多天皇・敦實親王・大昆古神
・創建:927年以前
・鎮座地:近江八幡市安土町常楽寺1
?「広済寺」天台宗→浄土真宗本願寺派
・山号:不詳
・本尊:阿弥陀如来
・開基:592-628 天台宗武佐寺
・改宗:1235
・1354 後光巌天皇は「広済寺」に落ち延びた
・住所:近江八幡宮市武佐町597
・山号:不詳
・本尊:阿弥陀如来
・開基:592-628 天台宗武佐寺
・改宗:1235
・1354 後光巌天皇は「広済寺」に落ち延びた
・住所:近江八幡宮市武佐町597
?「大光寺」天台真盛宗
・住所:近江八幡市土田町1058
・住所:近江八幡市土田町1058
蒲生郡
?「馬見岡綿向神社」旧:県社
・祭神:天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
・創建:545年に祠を建てたのが始まり
・移転:796年に現在地へ
・境内末社:?「稲置三麿神社」
・祭神:蒲生稲置三麿
・859年 紀武人雄子とういう人、
大宮社地に遷し玉椿神社と共に末社と
?「玉影神社」
・祭神:小舎人紀重方・紀實方・紀實信
・祭神:天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命
・創建:545年に祠を建てたのが始まり
・移転:796年に現在地へ
・境内末社:?「稲置三麿神社」
・祭神:蒲生稲置三麿
・859年 紀武人雄子とういう人、
大宮社地に遷し玉椿神社と共に末社と
?「玉影神社」
・祭神:小舎人紀重方・紀實方・紀實信
・代々の宮司の御霊、氏子内の英霊
・当神社に功績のあった人の御霊
・鎮座地:蒲生郡日野町村井705
?「十二社」
・祭神:国常立命・伊弉諾尊・天照大神
彦火火出見尊(神武天皇の祖父)
鵜茅葺不合命(神武天皇の父)
・鎮座地:蒲生郡日野大谷1
・祭神:国常立命・伊弉諾尊・天照大神
彦火火出見尊(神武天皇の祖父)
鵜茅葺不合命(神武天皇の父)
・鎮座地:蒲生郡日野大谷1
?「天満宮神社」
・祭神:紀貫之命・菅原道真公
・鎮座地:蒲生郡日野町河原504
・祭神:紀貫之命・菅原道真公
・鎮座地:蒲生郡日野町河原504
特に奥津島神社と九里氏はお金の貸し借りの文書も残っているので、関係があったことは間違いない。
また、紀氏の女に源三位頼政に嫁いでいたものがいた。(諸家系図纂)
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%B4%80%E6%88%90%E9%AB%98
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%B4%80%E6%88%90%E9%AB%98
以上、筆者出自(四国佐々木氏~豊後大友氏家臣藤原の寒田氏へ養子入り)とも関わるので、このサイトから大幅に引用した。
まず紀氏岩清水八幡宮と宇佐八幡宮との関わり。
全国木村氏には、紀氏(きの・うじ)、諏訪氏、近江源氏佐々木氏など諸氏由来がある。
諏訪氏は阿蘇氏同族の神氏。紀氏は筑後国高良大社の武内宿祢末裔氏族で紀州に入って紀氏。
これらの大元をたどると多氏系譜にたどり着く。おそらく筑紫国造家の大彦末裔系譜との合体が過去起きたか?
全国木村氏には、紀氏(きの・うじ)、諏訪氏、近江源氏佐々木氏など諸氏由来がある。
諏訪氏は阿蘇氏同族の神氏。紀氏は筑後国高良大社の武内宿祢末裔氏族で紀州に入って紀氏。
これらの大元をたどると多氏系譜にたどり着く。おそらく筑紫国造家の大彦末裔系譜との合体が過去起きたか?


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