先月、文芸社から封書が届き、原稿応募しないかとあった。
前著で痛い思い出もあって、しばらくほったらかしておいたのだが、近頃瓦の分析本やらなにやら読んでいるうちに、なにか頭の中にひらめくものを感じた。

で、面白い記事ではなかろうが、そのひらめきのヒントとして、地味であまり誰も省みないらしき軒瓦について、少し書いて行こうと思った。それがどのような古代史の謎につながってゆくかは、長い長い長編となるだろう。

日本の瓦の歴史は飛鳥寺創建に始まっている。
それまでに瓦を使う建造物は日本にはなかった。
筑紫大宰府の観世音寺の軒瓦も、法隆寺瓦の同笵製品であることが判明している。
法隆寺の瓦は、飛鳥寺の同笵製品である。
その飛鳥寺の瓦には、多くは百済様式が使われたが、中に、高句麗様式、あるいは新羅様式の瓦頭デザインが含まれていた。

その理由を明らかにすると、飛鳥時代のある大きな謎にたどり着けるのではないか。

答えはもう出ているが、あえて遠回りに、瓦の分析と、飛鳥寺、法隆寺の薬師、阿弥陀仏光背銘文のタイムラグから、結果として、聖徳太子とは誰だったか、飛鳥寺、法隆寺の創建者とは誰だったかを解明してしまおうというもくろみなのである。


瓦の様式とデザインから、河内の八尾渋川と信貴山をはさんで存在する斑鳩、そしてニギハヤヒとナガスネヒコの所在つまり物部氏の謎までを、すべてつないでみようという、無謀な、しかし文献分析の主観性からはわからなかった、科学による飛鳥時代の謎を解明してゆきたいと思っている。ご期待ください。

これはKawakatu最後の大仕事になるだろう。ご静聴いただきたい。