三種の神器は、記紀神話どおり今もなお、天皇に本物が伝えられていると、あなたは思うだろうか?筆者はそうだとはとても考えられないのではないかと思う。
なぜなら、神器は過去、数度消失、紛失、焼失した歴史があるからだ。そのつど神器は、あるは「元に戻った」とか、あるは「真物は伊勢や熱田にあって、そのレプリカが天皇家にある」などと諸説ふんぷんのまま、実際にでは間違いなく、神話のスサノヲやアマテラスの頃から天皇家に伝わった、その実物を見ることは永久的にかなわないのである。
記紀が、神話の頃から受け継がれと書いたにせよ、その記紀神話そのものが、記録されたのは記紀成立の8世紀にそう書かれただけなので、なんとなくそうだろうと思わされているだけではないのか?実際には、その神話は8世紀までの天皇に仕えた諸豪族たちから「帰順の印として大王に渡された」とも書かれている。皇祖アマテラスへスサノヲが帰順の印としての草薙剣が献上されたというのは神話であって、史実とは言えまいし、八咫鏡もまた最初はアマテラスが首にかけていた魔鏡であったとされつつ、実際には伊勢のご神体を模したものだと伝わっていもする。八坂瓊の勾玉にいたっては、壇ノ浦平家滅亡時に海底に沈み、他の二つの神器のようには、ついには見つからず、明らかにのちに造られたとはっきりわかっている。つまり現在の三種の神器は、壇ノ浦に安徳帝とともに沈んでからというものは、実は全部模造された可能性もあるのだ。
安徳入水のおりは、剣と鏡はよくご存知のように
「幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。」『吾妻鏡』
とされていて、しかしその後、海女を用いて海底を探させた結果、剣と鏡だけは見つかったが、おしむべきことに勾玉はついに見つけられなかったと言われる。
しかし、奇妙なことだが、『吾妻鏡』とは違い、発見された鏡も剣も、しっかりと箱に入れられていて、剣の場合、それゆえに海に浮かんでいたところを見つかったとする記録もあるし、あるいは、箱ではなく、さやに入った剣そのものだったが、実はそれは木造のレプリカだったとの伝承すらある。もちろん吾妻鏡にせよ源平盛衰記や平家物語にせよ、中世の記録は劇的に仕上げた軍記であり、どれが正解かはわかろうはずもないが、どっちに転んでも、三種の神器の一部が、このときすでに模造品だった可能性は高い。なぜなら、記紀そのものが、崇神天皇~垂仁天皇のころに、アマテラスは伊勢へ移したと書くのだから、当然、そのご神体の鏡も伊勢へ祭られたはずで、そのときに天皇にはレプリカが持たされたのだろうから。
その後、度重なる平安京の火事や応仁の乱によって、神器は何度も新調されたとも言われている。つまり現存する三種の神器はやはりすべてがレプリカであると考えるのが歴史の必然ではあろう。とは言っても、神器は、それを天皇が天皇の証として持つという意味よりも、神器を持つからこそ天皇だという神道論者たちの意見に従うならば、天皇が保持しているからこそそれは神器なのだと言われてしまえば、反論しようもないのだが。
それよりも、安徳帝が、たとえ平家の意志で神器を持ち出し、そのまま譲位もせずに亡くなったことについて、後白河法皇は烈火のごとく怒りをあらわにし、まだ安徳が生きているあいだに、もっと幼少の五歳の後鳥羽を即位させようとしたのが、前例のない「神器なき即位」の始まりだったことのほうが歴史上は重要だろう。安徳入水死までの期間は、二人の天皇が同時存在していることになり、二朝並立だったわけで、このことものちの南北朝分裂のきっかけのひつとも言える。
この前例なき即位に、諸侯は多いに反論をした。そこで、時の摂政家である藤原氏の九条兼実は苦肉の策で先の継体大王即位の前例を持ち出すのである。『日本書紀』は継体は、越前にいて、諸侯がこれを迎えにいったときに「践祚」したと書いてある。
「践祚とは天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位 によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味 する。」Wiki践祚
またその後、樟葉の「宮」に入ったとあって、そのときになってようやく大伴金村連から神璽の鏡剣をうけたとったともある(ここにも勾玉のことは書かれていない。要するに少なくとも継体即位の前には三種の神器と言う概念は日本にあったということと、勾玉はさほど重視されていないことが見て取れる)。
だが実際には「践祚したのちには河内馬飼首荒籠を重用する」むねは書いてあるが、それはその後の話として書いてあり、そのとき即位したのではないのだが、九条兼実の意図的なこの解釈で、諸侯はおさまったと言う。こうして神器なき即位は、継体天皇即位を前例とする風習が定着し、その後もやっかいな即位のケースで頻繁に持ち出されることとなったのである。
さて、ここまでは水谷千秋の『謎の大王 継体天皇』などに詳しいことがらだが、民族学伝承ひろいあげ辞典はそれではおさまらない。
では三種の神器、あるいは神器なるものが実際に受け渡しがあったという記録は、継体天皇の6世紀が最も旧いということになるのか?が問題である。
もしや、それ以前、つまり継体大王の時代は、イコール古墳時代終焉時代であり、確実に大和に王権があったと言える最初王朝の飛鳥政権成立前夜である。そして神器とは言うならば中国で言う玉璽であり、もっと古くは金印に当たる王の印である。
ところが3世紀までは金印であった玉璽は、なぜそのまま大和朝廷に引き継がれず、あえて神話を用いてまで三種の神器にせねばならなかったのか?
そこには卑弥呼や壹與らが受けた、王としての証明書=金印の伝承がない。もちろん南宋と交流した倭王武の記録にも、もう金印は書かれず、玉璽すら現れない。武は王と認められたかったのではなく安東大将軍になりたかったからであろう。しかし日本の記録で河内王朝に当たる、その時代の大和の大王だった雄略にすら、金印は一言も描かれてはいない。そればかりか神器を受けて即位したという記事すら、継体より前の大王には書かれてはいないのである。
あれほど神話では重要な印であると書かれた三種の神器は、いったい、なぜ継体即位まで無視されてきたのだろうか?
ここが一番重要なことではないか。
つまり記紀は、継体からこそが天皇の始まりだと考えてはいないだろうか?それは継体が飛鳥王朝始祖の欽明の父だったからであろう。ということは武烈以前の4~5世紀の倭王や、3世紀の邪馬台国や、1世紀の奴国王やのすべての中国記事に残される王統を、記紀は無視して、アマテラスにはじまる新王権から大和王朝が始まると考えていたのであり、それは記紀成立の天武~持統王権のアマテラス信仰と、3世紀に転換した北部九州の内向花文鏡に残る太陽信仰とを区別するものでもあるのではないか?
とするならば、伊勢に伝世されるヤタノ鏡のデザインが内向花文であることと矛盾することになるだろう。持統からの女帝時代整合化のために藤原不比等が復活させたアマテラス信仰・・・つまりは『日本書紀』を貫く太陽信仰は、そして記紀神話は、不比等にとっての都合がいい神話だったとなるだろう。
さて?
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