隅田八幡伝世・人物画像鏡銘文(本文は縦書き)
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか=桜井市)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて(斯麻念長人名説あり)開中費直(ひらきの・ひのなかのあたい火中直すると阿蘇氏であるかも?)穢人(漢人)今州利(百済コウロ王はかすりのきみ)の二人らを遣わして白上同(上等の白銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
読み方には諸説山ほどあり。これは一例に過ぎない。
「日十」は「十日」とも説あり。
人名の読み方、どこで区切るかは、規制の説はすべてが推量に過ぎない。
「斯麻」を百済王武寧だとするには「斯摩」が正しいとも言えるし、王とも書いていない呼び捨てだし、まったく決定的証拠がない。
つまり既成の諸説で、なにか説得力のあると思える説は一切ないと言える。
すべて否定したほうが、よく見えてくるだろう。
関係年表
372 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀)
391 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める
400 この頃以降、中国・朝鮮から多くの渡来人、大規模な前方後円墳が造られる
404 倭国、高句麗と戦い敗れる
413 倭国王、東晋に使いを送る
421 倭王讃(仁徳天皇か)宋に使いを送る
438 倭王珍(反正天皇か)宋に使いを送る
443 倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる
443 倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる
462 倭王興(安康天皇か)宋に使いを送る
471稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年)一説531年
477 百済王昆死す
478 倭王武(百済武寧王?)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
478 倭王武(百済武寧王?)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
499 1 25武烈 小泊瀬稚○○尊(おはつせのわかさざきのみこと)泊瀬列(なみき)で即位
502 4 倭王武、梁の武帝から征東将軍の称号授受 倭王武=武寧王?即位
503 斯盧国、国号を新羅と改める
503 隅田八幡鏡のキビ年号説での該当年B
この頃記録に初めて蘇我稲目登場
507 1 26継体 継体元年。大伴金村、応神五世の孫男大迹(おおほど)王を即位させる
502 4 倭王武、梁の武帝から征東将軍の称号授受 倭王武=武寧王?即位
503 斯盧国、国号を新羅と改める
503 隅田八幡鏡のキビ年号説での該当年B
この頃記録に初めて蘇我稲目登場
507 1 26継体 継体元年。大伴金村、応神五世の孫男大迹(おおほど)王を即位させる
512 大伴金村、任那四県割譲で批判受ける
513 百済から五経博士来朝(儒教伝わる)
523 百済、武寧王没
524 百済、聖明王(聖王)即位
524 百済、聖明王(聖王)即位
526 20 磐余の玉穂に遷る
527 21 継体21年11月、筑紫国造磐井の乱
528 22 継体22年11月、物部大連、築紫の御井郡で磐井を切り、乱を平定
534 武蔵国造の争い(屯倉増加)
527 21 継体21年11月、筑紫国造磐井の乱
528 22 継体22年11月、物部大連、築紫の御井郡で磐井を切り、乱を平定
534 武蔵国造の争い(屯倉増加)
531 25 継体天皇崩御、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)即位 攝津藍野陵に葬る
532 記事なし
533 記事なし
534 1 27安閑 都を大倭国の勾金橋(やまとのくにのまがりのかなはし)に遷す
百済国より朝貢使、来朝する
535 2 安閑天皇崩御、武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)即位
536 1 28宣化 都を檜隅の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷す
537 2 新羅が、任那に侵入したので大伴狭手彦を遣わし任那を助ける
539 1 29欽明 天国排開広庭命皇子(あめくにおしはらきひろにわのみこ)即位し、都を礎城郡(しこのこおり)の礎城嶋に置く
541 2 百済に任那復興を命ずる
532 記事なし
533 記事なし
534 1 27安閑 都を大倭国の勾金橋(やまとのくにのまがりのかなはし)に遷す
百済国より朝貢使、来朝する
535 2 安閑天皇崩御、武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)即位
536 1 28宣化 都を檜隅の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷す
537 2 新羅が、任那に侵入したので大伴狭手彦を遣わし任那を助ける
539 1 29欽明 天国排開広庭命皇子(あめくにおしはらきひろにわのみこ)即位し、都を礎城郡(しこのこおり)の礎城嶋に置く
541 2 百済に任那復興を命ずる
552 13 百済国から高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり
蘇我稲目と物部尾輿が政治的(百済援軍問題か?)に敵対?崇仏論争ではないはず
553 14 欽明14年百済国から、対高麗・対新羅抗争へ援軍要請
554 15 欽明15年5月内臣(うちのおみ)、軍船を率いて百済に向かう
554 百済聖明王、新羅に殺される
556 17 欽明17年1月、兵士1000名を送り百済を救援する
557 18 欽明18年3月、百済の王子余昌、王位に就く(威徳王) 557年、百済の王子余昌、王位に就(威徳王)
562 23 欽明23年、任那日本府、新羅に滅ぼされる
新羅討伐の詔下る
大将軍紀男麻呂宿禰(きの・おまろの・すくね)新羅討伐へ派遣
大伴連狭手彦(おおともの・むらじ・さでひこ)を高麗討伐へ派遣
570 31 蘇我大臣稲目死去 (欽明32年) 蘇我本宗家頭首は馬子へ
高句麗の使節、国書を携え北陸に漂着
571 32 新羅に使を派遣し任那が滅びた理由を問責する
572 1 30敏達 敏達天皇即位
百済大井(奈良県広陵町百済)に宮を造る
王辰爾(おうじんに)欽明31年漂着高句麗使節の国書(烏羽の表)読み解く
583 丁未の乱、物部守屋死す。隅田八幡鏡のキビ年号説での該当年A
584 13 蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る
584 13 蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る
百済王系図
武寧王は余隆、昆支王(百済王余慶(蓋鹵王)の子、軍君くだらのこにきし、弟は余紀)の子供(蓋鹵王、東城王の子説もあり)。東城王は武寧の叔父で、末多君とも。めたはみたで、吉野ヶ里地方を末田と言う。そこの王であろう。武寧を連れて日本に来訪。雄略・武烈に似て残虐な王。百済は滅亡したので記録が錯綜する。『百済本記』も日本での改ざんがあって確かではない。その錯綜はそのまま『日本書紀』錯綜にも影響し、継体や稲目や欽明らの生きた時間枠も混乱して諸説ある。つまりあとの『日本書紀』はいくらでも改竄可能だった状況である。
Wiki東城王
余紀とは兄弟の筈だが、そうした記述は見当たらない。同一人物か?
「523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明、日本では聖明王)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。」Wiki武寧王
倭王武(『日本書紀』では雄略・武烈に分割、改変してある)が武寧王(余隆)だったら。
蘇我稲目が日十王(日+十=早で「そか」)だったら。
蘇我氏と紀氏は葛城王家で同族である。
隅田鏡の漢文は縦書きであるから、離れている日と十は縦では上下にある。すると石渡の考えでは例として日下を一文字で表記することがあったから、隅田の日と十も本当は一文字「早」だったのではないかと。すると読みは「そう」「そか」である。また「早」は「草」の略字でもある。ここまでは筆者も辞書と首っ引きで調べて納得できた。
ただし日十を従来説にある十日と逆転してみても読みは「そか」と読めるのである。「そか」とは三十日を「みそか」という日本語である。十は確かに日本語では「そ」と読む。例えばイタケルの別読みが「イソタケル」で表記はどちらも五十猛である。「そ」が省略される例になる。
いずれにせよ石渡の説では「そか」は濁らない大和音で、本来は「そが」だから、日十大王とは蘇我大王だとするのである。そうなると「あ、そうか、なるほど」となる。
蘇我稲目が欽明即位の前、継体時代に記録に忽然と現れ、なぜか継体・安閑・宣化の三代にではなく、欽明に見出され大臣となると『日本書紀』ではなっている。しかしこの時代の切れ目のどさくさでの『日本書紀』系図はまったく当てにはなるまい。『日本書紀』が蘇我氏を悪として書かれている偽書だとする立場から考えてみると、まったく蘇我こそが継体~欽明までを宰相として助けた内臣である祖人・武内宿禰だったことに気づかされる。『日本書紀』における景行・ヤマトタケル・仲哀・神功皇后・応神に付き従った武内宿禰こそは、蘇我氏や武内宿禰子孫氏族たちそのものだったのであろう。藤原不比等にとってそれは手本にしてよい最高の宰相である。そして隅田八幡のある紀ノ川の紀氏もまた、淡輪の王であり、武内宿禰子孫氏族なのである。
すると答えはおのずと見えてくる。隅田八幡人物画像鏡とは、元の3世紀頃流行画像鏡をコピーして、文字を入れるための隙間をつくって、はがした神獣その他を切り張りしてでも、蘇我氏が大王であった事実をそれとなく、わかるものにはわかるように日十大王などにして、どうにかして蘇我氏が天皇以前の大王だったことを残したい。秘匿の鏡・・・。
それはしかし藤原中央王権には知られては困る。するとどこかに隠しておく必要があった。隅田なら誰も用がないし、まだ小さな紀氏たちのほこらでしかない。そこを八幡社にすることで、武内宿禰も八幡神=応神天皇の家臣として祭ることが可能だ。それが黒男神として宇佐や紀氏が社家をする岩清水八幡、その他にも広がった・・・。すると八幡信仰には秦氏や大三輪氏だけでなく、紀氏も大きく関わるのだろう。
紀氏は一方で不比等と盟友関係を持ちつつ、一方では正反対に先の大王であった蘇我大王=スサノオ・イタケル・オオクニヌシ・オオナムチとの家臣関係も忘れていないのだ。それは紀直と紀臣の二つの紀氏での申し送りだったのかも知れない。蘇我氏が滅びると確かに紀直は歴史から姿を消し、変わって紀臣が藤原氏と結びつくのである。
紀氏系図
では継体が仁徳だ、百済余紀だと言う石渡説の真偽はどうだろうか?
筆者は蘇我稲目こそが継体ではないかと見る。欽明もおそらく稲目ではないか?そして蘇我氏こそが百済余一族の中の東城王か余紀だとも感じている。そしてこれはもっと重大なことだが、『日本書紀』の応神~欽明までの系図は、『宋書』倭五王記事と百済史書から勝手に創作した天皇であふれていると見るのである。倭王讃(賛)、倭王珍(珎)、倭王済(斉)、倭王興、倭王武を、それぞれ百済王の実態から作った応神~雄略そして継体・欽明に置き換えてある気がするのである。そして『日本書紀』年代におけるすきまを埋めるために天皇の人数まで増やして、干支を水増している。
従来、推古を基準にしているとされる『日本書紀』干支年代は、持統が基準ではなければおかしかろう。神武も、九州から吉備、讃岐を経て熊野に至った紀氏祖先たち海人族の伝承を取り込んだものだ。応神にも神功皇后にも紀氏の伝承が垣間見えている。息長氏も紀氏ではあるまいか?
百済の王と王族の事績から天皇が作られた・・・つまり架空の記事である。天皇などいなかったのだ、葛城氏・紀氏・蘇我氏たちが大王だった時代があったのだ。だからこそ藤原不比等にはの本の正史の中では、蘇我氏はいなかった大王にしなければならなかった。ゆえに大臣だったと書いた。そしてその大王たちの血統を持統が正統に受け継いだ大王の血筋でなければならなかったのである。ということは、持統とはいったい実際には何者だったのだろうか?
またひとつ宿題ができた。
これは書いてはいけないことであるが、倭五王は百済王が兼任していた時期があって、それを藤原不比等が和製王家へ書き換えた、塗り替えたヒーローだったとしたら、あんたたちどう思う?ひひひひ・・・。筆者に百済への思い入れなど一切ない。私は純粋縄文系・海人系日本人ですので。



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kawakatu
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