森孫右衛門の出た摂津の見市一族はおそらく瀬戸内海賊であっただろうと中沢は言う。だから家康伊賀越えを同族である伊賀衆・甲賀衆に手を回して成功させたのではないかと。つまり海人族ネットワークの存在である。
見市(みいち)という旧姓は、店でものを見せる商売人と読み解ける。彼らの出身地は今の住吉周辺、当時は海の中で佃村・大和田村という小島の寒村に彼らは住んでいた。この佃がのちに江戸の佃島に名前となって残る。東京の向島の川向こうに浮かんでいた佃島は佃煮で有名である。孫右衛門らの生業が実はシラス漁だった。シラスとは九州で言うチリメンジャコ。シラウオなども獲る。それを煮込んだのが江戸の佃煮の始まりである。そういうのを雑魚と言うので、彼らが大阪で漁をしてあきなっていた魚河岸も「雑喉場魚河岸 ざこばがし」と呼ばれたのである。西成のここでは今も朝市が行われているらしい。
大阪・雑喉場の朝市 http://zakoba-asaichi.com/
ざこばは、小魚(雑魚)をはじめとする大衆魚を扱う魚市場を指し、「雑魚場」「雑喉場」などと表記される。
豊臣政権下、当初天満鳴尾町(現在の北区天神西町)に居た魚商人らは、開発が進む船場へと移り、靱町・天満町(のち本靱町・本天満町。現在の中央区伏見町1丁目・2丁目)が形成された。このうち生魚商17軒が1615年(元和元年)に南へ移転し、上魚屋町(現在の中央区安土町1丁目)が形成された。」
落語家の桂ざこばの襲名もここに由来する名跡を継いだもの。
「桂 ざこば(かつら ざこば)は、上方落語の名跡。 「ざこば」の名は、1931年(昭和6年)まで大阪市西区靱(現在の靱公園の位置)に存在した鮮魚卸売市場「雑喉場(ざこば)」に由来する。2代目は襲名に際して、後身の大阪市中央卸売市場に挨拶に行っている。」
※地名の靱(ゆき)に注目。古代靫負地名である。葛城氏や日下部氏に関係深い。日田市の靱。刀連(ゆき)。ゆげい→
※大阪城の前身は信長が崩壊させた石山本願寺跡地。つまり大阪市は蓮如や浄土真宗信者が今も多い。一向門徒の多くが被差別のせんみんが多く、海人族・渡来人も多かった。だから森・見市一族も漁師せんみんだっただろう。その気質は荒神で、荒い。
東京の人はまさか佃煮が大阪から由来するとか、江戸っ子かたぎも大阪由来だなどと言うと、「てやんでえ!べらぼうめ~。江戸っ子が浪速にはじまるわけがねえじゃあねえか!」と言うだろうが、事実である。また京都の錦市場の前身である六角市場も、始めるのは恵比寿様で有名な大阪今宮供御人(くごにん)からである(後述)。
江戸佃島に住み着く以前に、見市一族は安藤対馬守の縁で安藤役宅敷地のある小石川に入ったが、小島住まいに慣れ親しんできたためか、日本橋すぐに見える小島・佃島に移住する。そして島の名前もふるさとの佃を採って佃島になった。それ以前はこの三角州の島に名前さえなかった。今では隣の重工業会社で有名な石川島と合わせて東京都佃(つくだ)である。ここに彼らが入って、やはりシラスを獲り始めなければ、「佃煮」の名前もなかったことだろう。
思うに、西日本ではシラスのことをジャコと呼ぶが、関西ではシラス、関東でもシラスかと思うが、今の西日本でジャコと言えば四国の宇和島や大分の別府湾が有名で、ここの海人族はそもそもが藤原純友の乱に深い関わりがある海賊である。もしや彼らが見市一族の祖先かも知れぬ。古代でも吉備岡山の児島湾・牛窓に巣食った海賊は、そもそもが九州にえにしのある海の民・海部などの子孫であろう。吉備には北部九州式の装飾古墳や直弧文のある石障・石屋形を持つ古墳が多い。また天日矛伝承にあるヒメコソ社もある。それはなぜか秦村にあるのだ。渡来人研究の上田が書いている。筆者も岡山に行って確かめている。
摂津海人族と言うと住吉信仰が著名で、大阪住吉大社の住吉神は、江戸の佃島にもいの一番に建てられている。
東京の海岸部はほとんど埋立地。大阪市と同じなのだ。江戸時代には東京駅も銀座も有楽町も八重洲も存在しない。
住吉神は九州海人族の神でもある。記紀には神功皇后が持ち込むように書かれるが、そもそもは宗像三女神の三つ巴型信仰形態こそが原点にある。住吉神は安曇一族の信仰だから、皇后の船頭も安曇だったろうし、大阪の住之江に住み着いた海人族も安曇だった可能性は高かろう。この安曇の中からやがて天武天皇に嫁を出すことで管理者になって行ったのがおそらく宗像氏か?宗像は地名名乗りだった可能性がある(要分析)。
さて、佃島を本拠として見市一族は家康江戸城御用達の海産物卸へ成長した。摂津大阪の秀吉時代には、彼らは天満魚河岸の末席にいる程度だった。雑魚ばかり扱う漁師では不満も多い。そこに安藤対馬守は目をつけたのだろう。記録が言う孫右衛門親子と家康が直接出会ったというのはやや潤色で、やはり対馬守との出会いが最初だろう。また森改姓のエピソードに、孫右衛門家の庭に「三本の松」があったので森、というのは、百済王家の家紋が三本松であることを思い出させる。というのは、筆者、かつて枚方市の百済王神社に行ったとき、出会った宮司が大阪住吉大社の娘さん(藤津由巳子さん)だったのを覚えているからだ。
どうも大阪安曇海人族と百済王家には、運んだ、運ばれたの縁があってのことではないか?これは本人に確認しなかったが、もう彼女も知らないことではあろうが。
※安藤対馬と家康にとって、大阪城に出入りできる鮮魚卸問屋は、城内情報を取り込めるという利点がある。中沢の推測では孫右衛門一族はそもそも海賊スパイだった可能性がある。また彼らが大阪城内でさまざまな画策や、情報を流せば、かなりの霍乱の影響力があっただろう。
ところで、京都の今宮供御人というのは、こちらは戎信仰の持ち主で、今宮神社のえべっさんで有名だが、エビスとはそもそもが胎児のこと。つまり奇形胎児のヒルコのことである。船の民はよく死者を縁起がよいとして、船出に奉じていた記録があるが、流産した不完全な胎児を神とするこの信仰も、そういう意味があるのだろう。
ひょっとすると三種の神器のうち、勾玉の胎児形も、海人族が?神器の中で勾玉の扱いはあまり出てこない。そこも天皇の出自と海人族に?
今宮供御人とは、最初は六角界隈でハマグリを売り歩く行商だったが、王宮御用達となって権勢を振るうようになる一族。そして彼らは今宮村の、どちらかといえば底辺の一族なのだが、天皇家御用達となると税はまぬかれ(代わりに商品は格安でぶんどられるのは今も昔も同じ。宣伝費と思うしかない。それが御用達の悲哀)、せんみんであるにも関わらず天皇と深い関わり方さえするようになる。鴨川氾濫の際にここに牛頭信仰の祇園さん・・・今の八坂神社を建てたのが彼らなのである。そして彼らは祇園神人(じにん)と呼ばれ、さらなる権威を持つようになるのだ。
神人は、要するに世阿弥や出雲阿国が出てくる異界の人々である。そして海人族や漁師も、農民から見てやはり異界の人だったのである。ゆえに漁師は基本租庸調免除。代わりに高級海産物はタダ同然で神社や宮内へ納めさせられた。その代償としての「御用達」「供御人」「神人」なのである。だから現在まで、漁師町にはそういう古い時代の異界がまだ存在するわけである。言い換えれば・・・?
知らない。ちゃんと分析できるような時代ではなくなっている。
鴨川は往古は氾濫川で、流域範囲が現在の数倍もあった。それを秀吉は今の幅に護岸工事して、できた扇状地を新田にしたのだが、やがてそこに花街ができ始めたのが今の祇園花街である。花見小路。一方八坂神社の名は、この台地が坂が多いことからの地名で、そもそもはインドの牛頭・祇園信仰を持ち込んだ今宮海人族が始まり。その牛頭信仰をなぜ彼らが知っているかと言えば、海人族の古い船上交換貿易がインドや中国にまで及んでいた可能性なのだ。
この船の交易が縄文時代後期から相当な範囲に及んでいただろう説は、最近クローズアップされ始めたばかり。おそらく常識的な歴史家なら、そんなばかなで済ませてしまう話だったが、今や、中国やインドの発展で考古学も相当進展(中国はもはや日本を越えてしまっている)。どんどん証拠品も出始めている。いずれここでも紹介できるはず。
次回は、江戸の鯛「てえ」好みは大和の海人族子孫が持ち込んだ。
江戸っ子、京都っ子気質をファッション・流行で見る。








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