民族学伝承ひろいあげ辞典

文献・科学・考古学・遺伝子学・環境学・言語学・人類学・民俗学・民族学 あらゆるヒントを総合し、最新用語を解説、独自に解釈してわかりやすく説明します。 誰も書かない、目から鱗、鼻から牛乳、目から火花、頭の先からぴかっと電球

カテゴリ:記紀異説・神話分析 > 聖徳太子考

ではもう一度唐本御影にご登場してもらおう。おspらく日本人ならほぼ全員がこれが太子像だと思っているだろうが、実は違いう可能性が高い。まず1 衣装が奈良時代の衣装 太子は飛鳥時代初頭の人なので、これは奈良時代の想像で着せられた衣装か、あるいは別人と考えるし ...

古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土、製作年月日か 江田船山古墳に続く県内2例目、国内では8例目江田船山に続く、熊本では二件目の象嵌入り剣兵庫県の箕谷[みいだに]二号墳から出土した象嵌銘文刀と製作時期などが類似銘文は「甲子年五月中」=604年 604年5 ...

聖徳太子蘇我入鹿説・四天王寺荒墓伝説 ◆四天王寺建立縁起●守屋死後6年、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられた。●蘇我馬子の法興寺は上記 ...

なんのために『日本書紀』は聖徳太子を描いたのか?古代行動学での解釈は簡明である。蘇我入鹿と蘇我本家氏は藤原氏によって無残に滅ぼされる。ということは滅ぼした側の藤原氏にとって、蘇我氏は当然祟る霊魂になる。だから丁重に史書では扱わねばならなくなる。しかし滅ぼ ...

 ◆四天王寺建立縁起以下の記事の「聖徳太子」部分はすべて「蘇我馬子」に置き換えて読んでみてほしい。●守屋死後6年、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と ...

聖徳太子がイメージでしかないのなら、子孫などいるはずがない。とか、あなた、考えることありますか?『日本書紀』記述が、藤原氏摂政の正当化のために書かれているとするならば、当然蘇我氏を最悪に描き、蝦夷も入鹿も、最低に描いて当然。そもそも、一巳の変などあったの ...

坂越(さこし)の大辟(おおさけ)神社や、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」には「河勝は祟る鬼」という伝承が記録されている。なぜ河勝は祟るのか?それは河勝が蘇我氏に組した闇の暗殺者で、歴史の闇である障礙神 (しょうぎじん=マハーカーラのごとき宿神=後戸の神=影のフィク ...

にほんブログ村『隋書』倭国伝には、蘇我馬子の時代(『日本書紀』の言う推古年間)に、隋という大国へ正史を送る記事が載っていることは当然ご存知だろう。例の「日出る処の天子より、日没する処の天子へ、つつがなきや云々」というやつである。このとき倭国へ使者が訪れ、倭 ...

聖徳太子は天智~光明皇后が、日本に仏教を定着させるために創作された、日本自前の聖人である。中でも、持統から光明皇后・聖武までの王族にとって、ことにそれが大事だった。天智にとっては、白村江敗戦による唐と新羅の連合軍が追いかけてくることへの、政治的団結を ...

聖なる蘇我氏墳墓ラインと、丸山古墳の被葬者を決定すれば。謎が次々解けてゆく。五条野丸山古墳(大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる前方後円墳。奈良県最大規模。石室までの長さは日本最長(二位は福岡県の宮地嶽古墳【推 ...

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