カテゴリ: 秦氏研究いろいろ

前回は油揚げの形状の東西の違いを考えた。その中からでは豆腐自体に違いがあったのではないかという疑問が新たに生じた。すると豆腐だけでなく、油を食用とする時代まで考えねばならないことに気づいた。ざっと書く。小難しい引用などははしょる。まず豆腐。豆腐が日本に来 ...

にほんブログ村きつねうどんには揚げが乗っている。ところが関東では四角で、関西以西では三角だ。これはなぜ?油揚げ自体は尾張名古屋で発祥したそうだ。まずは江戸の寿司屋がこれを甘辛く炊いたもので作ったものに酢飯を詰めて売り歩く「稲荷寿司」の原型が生まれたことと ...

簡単に書こう。織田家にはもうひとつ愛知で尊崇する神社がある。愛知県の津島神社(津島牛頭天王社)である。祭神はもちろんスサノオで、ご神文は木瓜である。(もっとも、信長はほかにも6つも家紋を持っていたが)ここは信長以前の父親から続く尊崇。この「つしま」は対馬に由 ...

聖徳太子がイメージでしかないのなら、子孫などいるはずがない。とか、あなた、考えることありますか?『日本書紀』記述が、藤原氏摂政の正当化のために書かれているとするならば、当然蘇我氏を最悪に描き、蝦夷も入鹿も、最低に描いて当然。そもそも、一巳の変などあったの ...

坂越(さこし)の大辟(おおさけ)神社や、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」には「河勝は祟る鬼」という伝承が記録されている。なぜ河勝は祟るのか?それは河勝が蘇我氏に組した闇の暗殺者で、歴史の闇である障礙神 (しょうぎじん=マハーカーラのごとき宿神=後戸の神=影のフィク ...

秦河勝坂越伝承についての疑義シリーズ。秦河勝(はたのかわかつ)が兵庫県の坂越へ逃げたという伝承が坂越の大辟(おおさけ)神社には存在する。その時代は、蘇我入鹿が実質的王権ともいえるようになるときから一巳の変の間だと言われる。いわゆる「入鹿の乱」を逃れて=避けて ...

●蔚珍郡もともと北の蔚珍、南の平海に2つの行政官が置かれていた。現在の蔚珍郡の枠組みができたのは植民地時代に規模の小さな両郡が統合されて以降である。 古代には高句麗と新羅が争奪した。 朝鮮王朝時代には空島政策をとっていた鬱陵島を平海郡守が管轄した(鬱陵郡 ...

広隆寺の謎 5 ですでに書いたが、太秦由来だけを切り取って書き足し、再度貼り付けておきたい。検索を意識しての再掲載ですので特にナイスは無用です。「うずまさ」とは、うづたかく献上物を差し出したから拝領したというのが文献にあるが、定かではなく、「うつ」と ...

予備知識として一つ前に過去記事「京都葛野郡太秦の古墳一覧」記事を再掲載してあります。太秦広隆寺のちょうど北側におどろおどろしい古墳がある。https://kyoto-option.com/blog/hebiduka-tumulus/蛇塚古墳(へびづか・こふん)という。盛り土のすべてが長い年月と伏見地 ...

葛野(かどの)郡は大正時代に衣笠村が京都市上京区に編入。 朱雀野村・大内村・七条村、西院村の一部が京都市下京区に編入。 昭和6年に嵯峨町・花園村・西院村・太秦村・梅ヶ畑村・梅津村・京極村・松尾村・桂村・川岡村が京都市に編入。などしている。http://ja.wikipedia ...

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