四天王寺に祭られた守屋の霊魂は今どこに?  
 投稿日:2007年12月21日(金)13時31分31秒
  谷川健一氏は四天王寺は守屋の霊が祭られたと書いています。
私もその意見を読む前からそう思っていました。
そして本当に守屋はいたのか?と書いてきました。
守屋の死こそが日本書紀の最も大きいイベントだったのではないか?

なぜ香取というはるかな東国に物部氏を祭る神社を建てたのか?

鹿島は道の口です。
東北への入り口が茨城県なのです。那珂郡から千葉県犬吠埼周辺は昔、すべてが砂州でそこは海人がいました。海上(うなかみ)郡といいます。そして先に書いたようにここに多氏の眷属である佐伯氏、印旛国造・那珂国造などの多氏が入っています。
当然、多氏と来れば水銀があるから・・・。

鹿島神宮の武甕槌は地震の神様です。
ナマズの上にちゃんと乗っています。このナマズが武甕槌の足許に置かれたのはおそらく中世から江戸期の間でしょう。ではなぜナマズなのでしょうか?
本来、武甕槌こそが地震の守護神だったはずでしょう。吉野裕子氏は甕と「ひらか」が蛇を入れる容器だと書いています。

『常陸国風土記』には「茨城の里にぬか彦、ぬか媛という兄弟が居て、妹が名も知らぬ男と交わり小蛇を生んだ。それを神として、「成長の順に」(脱皮)坏・ひらか・甕に入れて飼育したが、その蛇を育てたひらかと甕は今も村にあってひきつづき祭られている」とあります。

「ぬか」とは先に書いたようにネコ流し淘汰法のネコです。それは砂金、砂鉄を指します。つまりぬかひこ兄弟は多氏、鉱物採集者です。

その二人が蛇を育てます。蛇とは物部守屋、大物主、ニギハヤヒ、鉱脈ではないか?
炭坑夫たちは蛇は百足とともに鉱脈への筋を指すのです。それは多くが噛む蛇マムシでしょう。マムシは雷です。そして雷はまたいかづちであり、甕なのです。ひらかは「へつ」とも言います。物部氏を祭る香取神宮の神は「ふつのみたま」という剣=鉄の神で、この二人が出雲に国譲りに行っています。マムシは天皇の名前にもなっています。たじひのみずはわけ。丹比とは丹生が出るところでしょう。愛知県にも丹羽氏がいてこれも多氏です。

愛知県のあゆちの郡、カタワの里にやはり兄と妹がいて、雷に打たれた妹のかたきを兄が討とうとします。これも鹿島の話と関係があります。愛知県の尾張地方は海部郡であり、高師小僧の名前の元になった高師の地名が中央構造線の近くにある入り江に残っています。しかものちには全国のサンカの分布でここから北へ諏訪までの天竜川沿いは最も多かったところです。さて?

これこそが多氏が行った道、来た道ではありませんか?

ナマズが祭られるようになるのは多氏の伝承からに違いありません。というのは阿蘇国造神社には大昔から地震を押さえるナマズのミイラがある鯰社という摂社があるのです!
もともとは阿蘇山、久住山という巨大な活火山を抱えるこの地方が火山活動によって鳴動したからでしょう。それが鹿島の武甕槌の上にあとから迷信として、民間に受け入れられやすかったためにおっかぶされてしまった・・・違うでしょうか?

建貸間の命というのが鹿島の多氏たちによって祭られている。聞いたこともなかった神です。
それに鎌足神社の床下には白蛇を刻んだ石が置かれています。
息栖神社は八幡神社です。摂社のなかには蛇を神体とするものがある。
息栖神社は那珂郡の娘と海上郡の男の恋物語がある。これもならぬ恋です。それは寒田という地名が双方にあることから、寒田郎子という名前を創り出しています。その佐牟田の神は神奈川県の秦野市に祭られています。寒田神社です。

大分県犬飼町にも寒田地名があります。こっちはそうだと読みます。ここに西寒多神社があります。大分市の西寒多神社の前身だったと言いますが、その西寒多神社は元々は大分(だいぶ)社といいました。もうひとつ大分社があって、そこには景行天皇の船つなぎ伝説のある碇山があり、滝尾百穴という横穴古墳群がありますし、郷名である下郡は、祖母山の鉱物神・建男下凝尊からきています。縄文時代の飼育した豚の頭蓋骨もでており、地名には津守があるのです。大分川という二番目に大きい川の沿岸です。それを遡るところには大分の君の大古墳・御陵古墳や遺跡が沢山出ます。
昭和20年代頃に多くが開発で壊されたことは非常に非常に非常に!!残念なことでした。

さて、天竜川を阿由知郡から北上すると伊那谷を抜けて諏訪に行き着きます。
諏訪には守屋を祭る人々がいると谷川氏が書いています。

そう、諏訪は物部氏を「鬼部」として祭ったのです。
物部守屋はあまたいる鬼部・・・漏矢も、八面大王も、両面宿儺も、蝦夷も、隼人も、恵比寿も大国主も、建御名方も、すべて追いやられた者どもの代表として、日本書紀のなかでほろぼされてしまったのではないでしょうか?それは物部氏がこの国で最初に大和に入り、近畿地方を手にしていた氏族だったからです。あとから来たのは誰だったかと考えれば、神武東征もとても理解でき安くなります。

物部氏とは守屋=鬼=モノ=被簒奪者を鎮魂する氏族だったのではないでしょうか?
そしてそれを本当に滅ぼす必要があったのは蘇我氏だったのでしょうか?

ちなみに蘇我氏と波多氏は同じ武内宿禰の子孫と新撰姓氏録は伝えています。
その中には、葛城襲津彦という、秦氏120部の民を迎えに行った人物もいます。