日本の環状列石一覧で見えてくる縄文中・後期人のルーツ 白人遺伝子の秋田移住が確実 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
地元の緑色の (せきえい・せんりょく・ひんがん)を使った秋田県大湯環状列石
※参考・緑色の石で造られる環状列石
翡翠色の呪・配石墓としての大湯環状列石再考 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
岩 ひんがんとは、中深成の岩。閃緑岩は普通地層の深部で生成される深成岩。やや深いところで作られるのが閃緑ひん岩。
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岩 ひんがんとは、中深成の岩。閃緑岩は普通地層の深部で生成される深成岩。やや深いところで作られるのが閃緑ひん岩。
日本のストーンサークル(環状列石・配石遺構とも言う ※配石墓を含む)一覧
※世界の環状列石には調査によって墓域を含む遺跡がありそれらを配石墓(はいせきぼ)と呼んでいる。英国のストーンヘンジや日本の大湯や三内丸山遺跡の列石などが環状配石墓となっている。Kawakatu
ここでは全発見数180箇所以上のほんの一部を紹介する。
■北日本
北海道 森町
小樽市
・ 余市町
深川市
旭川市
ニセコ町
秋田県鹿角市
(野中堂・万座) 北秋田市
青森県青森市
弘前市
平川市
岩手県滝沢市
八幡平市
九戸郡洋野町
洋野町種市
巣差巻市
? 安長6区遺跡
滝沢村 湯舟沢遺跡
陸前高田市 門前貝塚
■関東には中期以降にやってくる
群馬県安中市
(福島県楢葉町天神原遺跡とは別)群馬県安中市
東京都町田市
静岡県富士宮市
山梨県都留市
■西日本
和歌山県海南市
その他長野県八ヶ岳山麓遺跡や大分県宇佐市佐田京石頂上メンヒルなど各地に散在する。
「配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、日本各地で発見例が増えてきている。現在までのところ最も古いと考えられているのは
にある の で、縄文時代前期のものと推定されている。 が多いが、 には人間の背丈ほどの を環状に並べた佐田京石がある。」Wikiストーンサークル玦状耳飾分布と環状列石分布はほぼリンクする。
日本人のルーツ・その全候補地総覧 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
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●ストーンサークルの起源は縄文中期人の起源を教えている
日本の環状列石の多くは縄文時代の紀元前6000年末~4000年の前後(縄文中期~後期)に登場するが、これらは遺物の類似などから中国東北部、北朝鮮国境近くの
(りょうが・ぶんめい)の影響であったと考えられている。その移住の原因はまず環境の変化があり、さらに貴重な緑色の石や同じく緑色のヒスイへの欲求もあったと思われる。最初は姫川・信濃川~千曲川から長野の諏訪。信濃川河口部から秋田、青森。岩手へ拡散。信濃川内陸部奥地の諏訪から関東へ。関東から南へ・・・。白人の血脈を持った縄文中期人は、混血しながらついには九州までも。●緑色の石を追いかけて・・・
これらに共通する遺物は秋田産石英閃緑ひん岩の箆(へら)状垂飾・管玉・玦(けつ)状耳飾などである。
●秋田産石英閃緑玢岩の遺物と環状列石
下図・箆(へら)状垂飾と上図・管玉・玦(けつ)状耳飾(どれも石英閃緑玢岩
製品)
製品)
●環境・気象の変化と緑色の石への憧れが移住させた
遼河人は日本の秋田産石英閃緑岩を求めてやってきたと言っても過言ではなかろう。
すると縄文中期~後期の人々は彼らであり、最初に秋田に入ったとも考えうることになるのかも知れない。もちろんヒスイを探しても、日本海側全域に探しに来ただろうが。生命力を現す緑色への憧れがあったことは間違いない。古代人が世界中で植物の緑色に生命の力を感じていたのも間違いないことだ。
●ケルト遺伝子を持った人々が縄文中期に秋田へ?
「ストーンサークルの密集域が
(東北北部)と重なっていること、 は と関連していること、遼河文明と関連する からもストーンサークルが発見されていることから、日本にストーンサークルをもたらしたのは に属す 遼河文明人 と考えられる。ただしウラル系民族に環状列石を造る文化は元来なく、東アジアに環状列石を伝播させた集団は
に属す集団と考えられる。彼らは の担い手 として まで到達していたことが明らかとなっており、 では、ストーンサークルを伴った墓槨がみられる。その文化が東進して遼河文明に入り、ウラル系遼河文明人を介して日本にもたらされたと考えられる。秋田県に多い Eu-a2(JK)タイプもこの流れと共にもたらされた可能性がある。」Wikiストーンサークルより
●消えた縄文のハプログループR1b遺伝子・生き残ったウラル系N遺伝子の明暗
また環状列石を造る文化はその後も縄文環状集落という後期文化につながるとも考えられ、縄文人のルーツや、その「野生の思想」(円の思想)の源泉が中国東北部の遼河流域地域にあったと考えられ、彼らが
に属す集団であろうことは近年、かなりがえんじがたく(否定しにくく)なってきた。同じ円の思想で貫かれる環状列石と環状集落
「ハプログループR1b系統は
と に顕著に分布している系統であり、 や に80%以上の高頻度に見られる 。 人で高頻度に見つかる ことから、 の担い手である。(R1bは 、R1aは の担い手である 。)ヨーロッパ西部には に分布を広げ 、 の担い手 と考えらえる。また と の担い手である 。 以降の人種の流動に伴って、南北の や にも分布の範囲を拡大した。また にも86%の高頻度である 。この流れとは別に、古代にもアフリカ内陸部へ移動したR1b系統の一集団があったと見られ、ハプログループR-V88に定義づけられる分岐系統が の言語を話す の先住民族の間において高濃度で発見されている 。」ハプログループR1bの分布図
日本から消えた遺伝子である。
つまり縄文中期末~後期の人の中には、
欧州ケルト民族やスキタイ民族・テュルク民族などの血を引く
北方系民族の中国遼河経由来の来訪者があったようだ、
となる。
もちろん前期までにやってきた人々とその後混血しただろうが、
環状列石の4割が秋田県に存在することと、秋田県の民俗誌の言う「秋田美人と白人の血」うんぬんにはあながち否定すべきでない因果関
がありそうな按配である。
ところが、今の日本人のDNA遺伝子にR1bハプログループの痕跡は皆無である。これはどうしたことだろう?弥生時代にやってきた人々の遺伝子は主として
D1→D1a←チベット民族
D2→D1b←日本人(アイヌ、琉球含む)
D3→D1c←チベット民族
D4→D2←フィリピン・マクタン島住民
D2→D1b←日本人(アイヌ、琉球含む)
D3→D1c←チベット民族
D4→D2←フィリピン・マクタン島住民
つまり、アジア人のほぼ全体からケルトや騎馬遊牧民の遺伝子はほとんど凌駕されてしまったと考えるのが一般的だ。
現代日本人のハプログループの割合
ということは、アジアではその後たくさんのバイカル湖系D遺伝子の人々が広がって、結果的に先に来ていたR1遺伝子の白人的な人々を飲み込んだことになる。しかもD遺伝子のほうがかなり優性だったと言えそうだ。
ところが図のように、ウラル系である遼河先住者の遺伝子Nはちゃんとまだわれわれに残されているのだ。だから遼河に列石を造ったR1bトカラ文化人は消えても、それを運んできたウラル系N民族の血は生き残るわけである。秋田県人の白人的要素とはまさにこのウラル系N遺伝子の残存であることが見えてくるではないか?秋田県民にJcウイルスの多いこともそれを裏付ける。
ハプログループNの分布図
これが日本に定住する
ウラル系遺伝子
●同時にやってきた南の異人種
大湯環状列石からは、実は同時に南海産イモガイや蛇行剣も出ており、北方系移住者と南方系交換貿易の人々の同居と交流があったことがわかっている。
そこへ弥生時代以降、さらに寒冷地対応したモンゴロイドが入ったのだ。そうやって次第に縄文人の白人的痕跡は飲み込まれてゆくが、奈良時代以後、さらに蝦夷討伐による空白の東北への屯田開拓民が西日本から大量に入れられたことで、これは政治的に縄文人たちの遺伝子は完膚なく消えたということがわかるのである。そして蝦夷俘囚の西日本移住で、面白いことに鹿児島や大分や瀬戸内などに、むしろ縄文の色合いの強い人も残ったし、蝦夷激減後の北海道ではアイヌだけがその遺伝子を引き継ぐ唯一の少数先住民として残されることとなったのかも知れない。
ハプログループDの分布図
Dの拡散図
バイカル湖周辺で集散し、アジアへ拡散した。日本ではD1bが多い。東日本人>西日本人>アイヌ・琉球 西日本・九州はD・Gが多く東日本ではDのみが多い。弥生人だっていろいろあるってこと。あちこちに渡来の玄関があるのが日本列島。北部九州だけじゃないのだ。
●大湯より前にいた前期縄文人は?
アイヌがいったいいつごろから北海道に移住してきたかは今後まだまだ研究が必要だろう。縄文初期からなのか、先土器時代からいたのか?それとももっと前か?わからない。そしてアイヌもまた、全日本人同様に、明治の同化政策以来、どんどん混血してゆく。
●結局Dが勝った?
こうして世界の人種の相違は消えてゆく運命にある。
民俗学、人類学、遺伝子学には絶望的、しかし世界の一元化と平和にとっては有益。
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