民族学伝承ひろいあげ辞典

文献・科学・考古学・遺伝子学・環境学・言語学・人類学・民俗学・民族学 あらゆるヒントを総合し、最新用語を解説、独自に解釈してわかりやすく説明します。 誰も書かない、目から鱗、鼻から牛乳、目から火花、頭の先からぴかっと電球

シロヤマブキに白い花開いて初夏近し


 太陽信仰は、日本で最古は弥生時代、2世紀後半の倭国の乱前後に、北部九州で漢鏡を欲するようになった頃が始まりで、理由はその時期が寒冷期だったからである。だから鏡は、雲や火山灰で隠れてしまった太陽の再来を望んだ、その代用だったことになり、九州で巨大な内向花文鏡が作られたのはそのためである。内向花文の模様は花ではなく太陽光を表しているから、花文という名前は早く変えるほうがいいと筆者は考えている。あれは陽光鏡なのだ。しかも内向でもなく、外向である。そとへ燦然と光を放つ太陽の鏡なのだ。わかっちょらんね、考古学者は。





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(次回、卑弥呼の鏡は内向花文・画文帯、どっちか?を書きます。お楽しみに。)

鏡の祭祀が始まると、それまで九州での祭具だった銅矛=武力開拓の象徴は少なくなっていった。近畿に鏡のブームが及ぶと、そっちでは銅鐸が消えた。出雲では銅剣と銅鐸両方が消えたのである。これは信仰の一大変換であった。神そのものも変ったのである。しかし本家の中国では鏡は僻邪の魔よけであり、倭国や公孫遼東の新興太陽信仰は「鬼道」でしかない。1~2世紀は大陸も九州もヒエラルキーの拡大上昇志向時代で、これは世界的に帝国主義的な時代である。普通なら農耕神に祈らなくても良いのだが、あいにく気候が悪化した。だから世界中で太陽信仰がにわかにムーブメントを起こして古い戦争の神にとってかわるわけだ。それはそのまま平和への祈りである母神の象徴でもあった。太陽神は女神として登場する。それで巫女が常にこれをなだめねば怒り出すわけだ。






これは簡単に言ってしまうと、

九州では内向花文鏡(陽光鏡)で畿内では画文帯神獣鏡(三角縁ではなく)だったということになる。


別に卑弥呼が二人いたなどと言うのではない。
太陽のステータスにしたかった九州と、そうでなかった畿内という対比である。


つまりどういうことかと申すと、

1 卑弥呼の時代、まず世界的な気候変動が起き、動乱期が始まっている。これはご理解いただけたはずだ。

2 それで倭人の祭る神が太陽神へと変わった

3 だから内向花文鏡のような太陽を絵にした鏡を最初に大切にした九州にこそ卑弥呼は生まれて当然だ。

4 その同時代に畿内では、まだ神獣鏡しか出てこない。特に纒向の箸墓よりも旧いホケノ山古墳からまずそれが出ている。この鏡の模様には「太陽=農耕神を依り代とする絵柄がなく」いまだに中国紀元前の南朝古来の神獣=神仙思想の神々が描かれている。つまりまだ畿内には九州のような、気候変動による不況とか、それによる大陸での争乱とかへの関心度は極めて低いとなる。


要するに、同じ弥生時代後期でも、その色彩がまったく両者に違いがあるのだ。
大陸の情報がそのまま影響して動いていた九州。
残存した縄文人たちと融和して、ゆっくりと時間が動いていた畿内の違いである。


高島忠平はかつて、畿内大和の三世紀は縄文的な円の思想で住居が建てられていると喝破したが、筆者もかねてから、大和の遺跡に縄文色が濃いことを意識し、卑弥呼は畿内にいたなら縄文人だったかも?と書いたことがある。



※テレビのCMに卑弥呼時代の弥生人が出てくるが、なぜか熊襲のように毛深い男にされている。それを見ると、日本人の古代人感は全体的に毛深い人々だったのに、なぜか卑弥呼だけはのっぺりした弥生顔の美人だなと思うのである。それはやはり映画卑弥呼の岩下志摩の影響があまりに大きいのだろう。弥生人は平坦で毛が浅い北方系である。毛深いのは熊襲や縄文人である。そういうイメージはこのさいどうでもよいか




最近は石野博信も、近畿地方に縄文的要素があったことを否定していないようだ。


さて、邪馬台国がどこにあったかを考えるとき、近頃ではこの太陽信仰への変換こそが謎を解く鍵ではないか?と筆者は強く考えるようになった。

日本古代~江戸期までの日本人の祭祀の対象は、さしたる大きな変化はなかったと見える。根本は常に「祖霊」であり、その守護が開拓神や農耕神に交替するだけであった。その理由は常に気候変動だったと言える。気候のよいときには農耕に問題はないから男たちは侵略や開拓にまい進する。だから祖霊復活の神とは常に武力の神でよい。しかし気候が悪化すると太陽神が復活する。日本の歴史で最初に太陽神が登場したのが卑弥呼の直前の九州で、最後が先の大戦の直前である。どっちも大乱の起こる時代だった。もう一回だけ太陽神が復活したのが天武天皇の壬申の乱である。
これも戦乱で気候がよくない。



このように気候悪化(大地震や火山噴火も必ず同時に起こる)と農耕衰亡が戦争をひきおこし、混乱して国家が転覆し、太陽神がクローズアップされる。この三つは歴史のセットなので充分注意しておいたほうがいい。最近、随分きな臭いですぞ。



さて、卑弥呼の鏡はこのように太陽のよりしろであったはずだから、それはまず内向花文鏡なのである。

ところがどっこい大阪や兵庫の環濠集落遺跡から内向花文出ちゃった。


蝙蝠紐座内向花文鏡の分布
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安本美典・邪馬台国の会



近畿では、兵庫県神戸市灘区の東求女塚古墳の二枚と大阪加美遺跡、京都府八幡市、和歌山紀ノ川と、伝世されている伊勢神宮のヤタ鏡ぐらいしかない。畿内の周囲からしか出ず大和では出ない。伊勢の場合は持統天皇あたりが、古墳の鏡は五世紀あたりなのでこのさいはずしていい。問題は三世紀に出ているのはである。ほとんどが九州であり、平原のものは特大の上に、デザインが特別だった。


兵庫の東求女塚、西求女塚、処女塚の三つの古墳は面白い。それぞれ古墳の形が違う。
西求女塚は前方後方墳、東求女塚は前方後円墳、処女塚は前方後方墳である。違う種族が同居していたのが神戸の灘である。ここ大事。



一方、画文帯は全国から出るが一番多いのは近畿、奈良県で、これが邪馬台国時代の近畿のステータスだった鏡になる。しかしそれはおそらく公孫氏を通じて手に入れたものだろう。中国の博物館に一枚だけ、三角縁画文帯神獣鏡らしきものがあるらしく、史学者の吉村なんたらあたりはこれが三角縁神獣鏡の最初のモデルではないかと言っている。




このように、どうも大和から出てくる遺跡、遺物には、実際の中国の事情と現実に対面したという実感がない。大古墳の登場にしても、九州の切迫感がなく、巨大なだけの装置で、太陽復活、農耕復興への切望感が感じられないのである。実戦の痕跡、いくさで死んだ多くの兵士なども出ない。紙芝居の作られた3世紀しか見えてこない。

魏志は卑弥呼は狗奴国と対峙していたと書くのに、戦った痕跡がまったくない。ただ、唐古鍵の九重の環濠が、増えたり埋められたりするだけだ。池上曽根遺跡でもそうである。堀を埋めたり、掘ったりを繰り返す。そして肝心の纒向にまったく環濠がない。大和では3世紀終盤、何事も起こっていないのである。遠く離れた「見るあるもの少な」い隔絶地域だからというのなら、ではなぜ直接対峙したはずの狗奴国との争いが見えてこないのかについて、畿内説学者は応えてくれねばなるまい?


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