「『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期に旗本の大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を讃えた家訓書である。」

三河物語 - Wikipedia

旗本御家人 - 18. 三河物語(みかわものがたり) : 国立公文書館 (archives.go.jp)

9784122037915

三河物語(漫画)- マンガペディア (mangapedia.com)






●家康の父親の出自についての「三河物語」の記述部分

「(前略)然る処に、松平之郷中に太郎左衛門尉(と)申て、国中一之有徳なる人有りけるが、イカなる御縁ニカ有らん、太郎左衛門尉独媛(ひとりひめ)之有りけるを、徳阿弥殿を婿に取、一跡(いっせき:跡目)ニ立まいらす。然る処に、坂井之御御子、後に御尋ヲハシマシテ御対面有時、「尤も御疑無更ニ。然リトハ云共、人之一跡ヲ継グユエ(上)ハ、惣領トハ云ガ(タ)シ。家之子にせん」と仰せあつて、末えの世迄、乙名(おとな:家老)とならせ給ふ由、しかとの事ハなけれ共、申つたへに有り。

サテ又、後にハ太郎左衛門尉親氏(ちかうじ)、御法名ハ、即徳阿弥。(後略)」



「この文から、『三河後風土記』の概説を記してみると、「上州世良田に世をさけていた有親らに対して鎌倉から新田余類追捕は急であった。そこで有親は、長阿弥、その子親氏は徳阿弥と称し、父子は藤沢の遊行上人の弟子となり、時宗の僧に姿を変えて諸国を遍歴して、鎌倉方の新田氏余党の追捕の手を逃れていたのである。」とある。

有親父子は、時宗の僧となり鎌倉・藤沢道場⇒三州大知波向雲寺(湖西市)⇒大浜称名寺(三河碧南市)へと足利鎌倉氏からの追捕を逃れてきたのであった。

ルート的には、陸上ルートよりも海上ルートの方が安全であると考えられる。


#矢作川河口にある称名寺から、川運ルートで川を上っていた。矢作川の川運は、民謡「岡崎五万石」にも歌われているように非常に水量も多く、人・物の輸送や文化の発展に寄与した歴史がある。
岡崎から更に上流の九久平(くぎゅうだいら)(現豊田市松平地区)までは、帆掛け船が明治中期まで活用されていた。その九久平から、作手・設楽の奥三河に続くルートと、九久平から足助町を経て通称“塩の道”ルートで信州へと続く重要な河川であった。


九久平から作手(つくで)ルートの入口の山村に松平郷が位置している。」

徒然(つれづれ)歳時記  : 歴史 (blog.jp)


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そもそも#長篠の戦において家康について#信玄は「松平とは何奴なのか?」とつぶやいたというが、それほど松平氏は無名の人だったことになるから、#時宗の#乞食坊主だった#徳阿弥にはたやすく養子として入り込める山間へき地に#三河松平(地名)はあったのだ。

#時宗の僧と言うとそれなりに聞こえるが、名前が徳阿弥と「阿弥」がついているところをみると、これは正式な僧とは言えず乞食坊主だし、時宗そのものが下層民を救うを目的とした宗派なので、#徳阿弥はまず間違いなく出自不明の放浪の芸能民=被差別者だったことは間違いない。

それが隔絶された三河山間の#無名#山賊の娘に養子として入って#松平を名乗る。#信長と言い、#秀吉と言い、武士とは多くがそうした人々がやくざのように地回りとして地域を護ってやるとうそぶいて力ずくで領主になったものだと言える。どこの馬の骨かわからないものが信長のシンパシーを得たから出世したと観るのが正しかろう。つまり#織田家も福井の織田の祭祀者的な阿弥だったはずである。



#信長・秀吉・家康は秦氏 ?
#阿弥とは、「#元の木阿弥」と申すように、元に戻ればどうしようもない奴なのである。#本阿弥光悦の名前も「本来は阿弥の家元」だからのちのえたがしらのような家柄だろうし、#観阿弥・世阿弥などの芸能民がやはり阿弥を名乗るのも、出自の悪さの証拠である。#足利の家臣団、信太の#阿彌が本貫、#時宗の僧侶の号、などなど諸説あるが、いずれも#秦氏に関わる。つまり#渡来部民の被差別者であるので、中世~近世は#芸能、漂泊、修験、神人などしか生きる道がない人である。

いいろいろなかばねに変えてゆく。武士はそうである。家康も松平を名乗っているときは源氏をかばねとし、徳川になると藤原をカバネにしたりする。つまり節操はない。出自不明の証拠である。

そもそも古代からつづく武家なら源平藤橘の四家いずれかを名乗るのが当たり前だったから、どんなやからでも世に出るとそれを名乗っただけのことである。”はく”をつけただけ。血縁など関係なしである。

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#タイのてんぷらで死ぬはずがない
てんぷらにすれば少々古いモノでも食える。それで腹を壊すはずはない。
#家康はもともと胃がんか大腸がんだったのだと言われている。
タイはきっかけに過ぎない。死因は#腸閉塞だったと医者は推測している。

「徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ」じゃなかった!? 現代の医師が診断 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)


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