『丹後国風土記』「筒川嶼子 水江浦島子」

筒川の里、日下部首等の先祖に姿容秀美の筒川嶼子という者、即ち水江浦島子がいた。伊預部馬養連の記したところのものを述べる。

長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)の御世、浦島子(この人物は但遅馬国造の支族である日下部首の一人である。)は小舟に乗り釣りに出た。


三日三晩の間一匹の魚も釣れなかったが五色の亀だけ得る。

奇異に思ったが眠っている間に亀は比べることもなき美麗な婦人と為った。

女娘は問答の中「天上仙家之人也」と己を語る。彼女が眠るように命じ浦島子が目覚めると、不意の間に海中の大きな島に至っていた。

館の門に入ると七人の童子、八人の童子が迎えるが彼らはそれぞれ「すばるぼし」(プレアデス)と「あめふりぼし」(ヒヤデス)だという。

女娘は父母と共に迎え、歓待の合間に人界と仙都の別を説く。

館に留まること三年経ち、浦島子は郷里の事を思い出し、神仙之堺に居るよりも俗世に還ることを希望する。女娘は別れを悲しみながらも、玉匣(たまくしげ)を渡し「戻ってくる気ならゆめゆめ開けるなかれ」と忠告する。帰り着いて辺りが変わっているので郷の者に聞くと、浦島子は蒼海に出たまま帰らなかったということにされていた。玉匣を開くと風雲に翩飛けるような変化が起き、浦島子は涙に咽(むせ)び徘徊し、歌を詠む……


常世邊に 雲立ち渡る 水江の 浦嶋の子が 言持ち渡る
神女遙飛,芳音で歌いて曰く:
倭邊に 風吹き上げて 雲離れ 退き居り共よ 我を忘らすな
浦嶼子:
子等に戀ひ 朝戸を開き 我が居れば 常世の濱の 波の音聞こゆ
後世の人歌いて曰く:
水江の 浦嶋の子が 玉匣 開けず有りせば 復も會はましを
常世邊に 雲立ち渡る 多由女 雲は繼がめど 我そ悲しき

出典・Wikipedia 丹後国風土記







これが最古の記録であるから浦島伝説の原型はこれである。
冒頭に「伊予部馬飼が語った内容と同じだ」と書いてあるので 、そもそもこの話は語り部が伝えてきたものだろう。風土記はそれら昔話を集めて「羽衣伝説」とともに記録したことになる。そもそも言い伝えだからどれがオリジナルというのは最初からむつかしいが、記録で最古は風土記だから、これをオリジナルとするしかない。その後の改変はなんどもあるが、最終的に今の童話に仕立てたのは明治の作家・巌谷小波(いわやさざなみ)である。

付け足された内容には、古代中国の蓬莱、常世へのあこがれ、神仙思想、平安期のうつほ舟や補陀落渡海思想・仏教説話、鎌倉以降の武家的儒教思想、明治の勧善懲悪嗜好などなど、多岐にわたった改変によってきたと思っていい。その中にはかなり竜宮城での浦島の行状を破廉恥、エログロに描いた大人向けエロ本的改変もあったらしい。世界の寓話や童話にもそういう歴史的流行や改変、潤色はあるが、おおよそが現代に近づくにつれて子供向けになってしまう傾向にある。浦島伝説もその代表である。

タイやヒラメの舞い踊りで済ませてしまったところなそ、やはりさまざまなリュウグウの女たちとの秘め事が描かれていただろうが、削除されたわけだろう。


さて風土記浦島伝説にある寓話としての観念は、

1 約束を守らないと罰を受ける

戒めとしてはこれだけである。ほかにはなにも書かれてはいない。

2 都の神仙思想流行への戒め?
あるとすれば影に、流行りの神仙思想や補陀落渡海思想への、「海人族日下部一族」としての経験から出たとも思える戒めがあったかも知れない。

というのは京都宮津~加悦郡与謝郡あたりの日下部は漁師だから、海を現実的・客観的に観るのが当然で、貴族たちのうわついた死を急ぐ末法思想を戒めた?

ただ風土記・『日本書紀』の8世紀に末法思想も変ではある。まだ儒教も入らず、仏教も本格化していない、仏教の刺激から成立する神道のとりまとめも不十分ないわば原始的民間信仰中心の時代。だからこそ、入ってくる後着の新興宗教に対して彼らが眉をひそめてしまう存在だったとは言えるかも知れない。仏教に対する物部氏主流派のように?そう『日本書紀』は描きたくて、浦島や羽衣はそのいい例だと考えて選んだか?知らない。

ちなみに筆者は何度も京都の日本海側へ出張したが、車で通ると与謝町は海よりも山の中というイメージで、大江山からまっしぐらに駆け下りてくる場所というイメージ。浦島神社があるのは海岸で加悦郡ではなかったかと記憶するが、勘違いかもしれぬ。

与謝野鉄幹が生まれるには、あまりにひなびた場所ではある。宮津市や天橋立なら江戸時代からにぎわった港だが。


日下部は古代天皇の名代部であるが、「くさか」の由来は近畿では孔舎衙であり、難波湖つきあたり枚岡市の港の地名が草香である。枕詞で「日の下の草香 ひのもとのくさか」。だからくさかを日下と書くようになる。

そもそもは弓を背負う靫負(ゆげい)集団で、天皇の御所の門番である。全国に配置され、弓、靫をステータスとした墓を持つ。戦うと言うよりも戦士を鼓舞する役目が主の軍楽隊のような存在だろう。そもそも草香にいたというのは港の守りだったからで、海の民だったのは確かだ。

浦島は日下部というよりも大倭(やまと)氏の伝説にある椎根津彦(珍彦)に近い。日下部がもしや大倭氏から出た可能性はある。

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