立正大学文学部文学科教授・三浦佑之は『古事記』は敗者の書であり、『日本書紀』は勝者の書だと分析した。それでいいかどうかはまた別の問題だ。

『古事記』は抒情詩であり、『日本書紀』は叙事詩であるとも言える。


三浦的に、敗者だからその後裔は過去を抒情を込めて輝かせたかったけれど、勝者はそうした回顧よりも、今の政治こそが正統であり、ゆえに叙事的にそれを潤色するとなるか?

中村修也は、継体大王の妃の中で、古事記にないのに『日本書紀』にある姫二人について言及した。これもまた中村的に言うと、継体の出自の正統性のために『日本書紀』編者が創作した姫だと書く。

それらのことそのものは『古事記』が「帝紀」を手本として先にあって、『日本書紀』はそれを潤色したと言っているのに同じことではあるまいか?

筆者は『古事記』も勝者を描いた、しかしのちに彼等が敗者となった、誰がそうしたか・・・『日本書紀』の編者がと考える。最終勝者はもちろん藤原不比等であり、敗者は蘇我氏である。『日本書紀』編纂時代にはそうだろう。直前の時代は飛鳥の蘇我氏の時代しかない。

『日本書紀』は継体大王~飛鳥の現代までを描く。『古事記』は神話を中心にして敗れた出雲を礼賛する。そうなのか?しかし太安万侶の序文は勝者だったはずの天武を礼賛し、蘇我氏の栄華などまったく触れていないと思える?



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