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倭人伝に書かれた「くこちひく」だが、依然ここに「くこち」は窪地だろうと書いたような気がする。


「くぐち」は「くぐる土地」で「くぐる」は「潜る」だから窪んだ土地つまり盆地。熊本県菊池市は菊池盆地にある。だからくくち、きくち、くこちなどは盆地・窪地だろうと想定可能。


古語・和歌に「かこち顔」と出てくる。「かこち顔なるわが涙かな」。この「かこち」とは陰りのある憂い顔、恨みを含んだ顔、重いわびたさま、などの意味。これも語源は「くぐる」だろう。窪んで日の当たらない盆地を薄暗い「かこち顔」に見立てたか。陰った窪地のように暗い顔つき。


魏志倭人伝には狗古智卑狗という副官と、狗奴国王卑弥弓呼の二人が書かれている。
「くこちひく」は王ではないので鞠智一帯の支配者だろうか。それを菊池にあてて菊池彦と読む説が主流。

北陸北アルプスの白山には菊理姫なる比売神がいるが修験道の山の神である。「きくり」はやはり「くくり」でもあろう。女神だから「理を聞く」にかけてあるようだ。理を聞くのは王の役目でもある。いずれも祭祀者となる。つまり祭祀王が卑弥弓呼で、実務王が鞠智彦という古代の定型的政治体制になる。卑弥呼と伊都国王の関係と同じである。全国どこでも弥生時代~古墳時代にはそうだったのだろう。

これを彦姫体制とか言うけれど狗奴国は男同士だから、男女、夫婦に限ることはない。本来男同士の体制だったはず。「ひこひめ」というよりも祭政王並立体制である。これが分かれているということは卑弥呼の時代の日本は古代より中世的だったと言える。西欧でそうなったのは中世のことだから。ルネッサ~~ンス!!


山臺国も球磨国も、ほかにももっと王国があって、合議制だったのが、中華の三国時代で寄って立つ相手が安定性を失ったから意見は分かれ、倭国は乱になった。卑弥呼は筑紫を捨てて大和に逃げ出す。そして結局、両者はまた便宜的な握手をして古墳時代へ。そこへやってきたのが応神一家。お母ちゃんの神功皇后は、そもそも母国朝鮮から追われてきたから、恨んでおり、母国へ報復遠征しようとしたんだろう。それを援けたのは倭国の息長氏となるが、この息長と言う氏族、実は藤原不比等かも知れない。息長氏に実態が見えないのは、不比等が天皇の外戚にひそかになるために作り出した幻影氏族だったからかも知れない。実は不比等こそが朝鮮から逃げてきた祖先の子供か?つまり藤原鎌足=百済王・余豊璋であったなら、神功皇后が半島へ意趣返しする意味がつながる。

近畿が大和と呼ばれた理由は、筑紫の「やま」地名の人々が移動したからだろう。

近畿地方の1,2世紀には筑紫ほどの立派な遺跡がないのだから、地名が近畿から筑紫へいくのは無理がある。その頃の近畿は縄文世界の西の端っこである。ニギハヤヒが入らなければナガスネヒコの天下だという意味を『日本書紀』が書いているわけだから。

3世紀になって急に大古墳が登場する理由もこれで理解できる。吉備から来たのが応神で、筑紫を王にして補佐する国家になる。纒向の古墳や遺跡にそれが見え見えである。王はひとりだから、祭祀の中心は吉備様式になって当たり前。筑紫王は錦の御旗なのだ。筋は通っている。


要するにその時の大和の王は筑紫狗奴国王で、祭祀王は吉備邪馬台国王ってことにならないか?並立しているじゃない。


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