古い話だが、江上波夫博士が死ぬ直前に口述筆記で最後に著した論文が「倭人とタカラガイ」だった。
ここには中国と倭人のつきあいの最初に、タカラガイ(子安貝)が欲しかったからだということが書いてある。

タカラガイは中国で最も古い貨幣であったからだ。
時期的に日本が縄文時代後期の頃から古墳・飛鳥前期ころまで、タカラガイは貨幣の価値があり続ける。
漢字の金銭に関わる文字、財、賠、貯など、みな貝がついているからわかる。買だけでなく売にも、もともと旧字には貝がつく。この「ばい」という漢音自体が「貝」の音訓である。日本のバイガイという巻貝はだから「ばいばい」となり、貝貝である。


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では誰が中国にタカラガイを運んだか?
それがわかれば中国人が言う倭人はかなり地域を限定できる。

タカラガイは沖縄など南方でよくとれる貝だ。

 昔、ここに朝鮮南部の島々を経由して倭人が中華へタカラガイを運んでいた遺跡があると書いている。海の道・貝の道カテゴリーでそう書いたのはもう何年も前のことだ。南朝が琉球産タカラガイを延々と輸入していたことも書いた。

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タカラガイを中国南朝へ運んだのは琉球人。その代わりに中国からは明刀銭がきている。

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タカラガイだけではなく、南海から日本、朝鮮へ運ばれたのは、ゴホウラ、夜光貝、イモガイなど食べるではない、加工するためだけで、危険な毒を持つ貝までを、深海まで探した琉球人は、沖縄に加工工房まで持ち、現地加工した製品を倭国九州まで運んでいる。運ばせたのが北部九州倭人かどうかは問題ではない。中華が「わじん」と考えていたのは琉球人だったということである。

採集したのも琉球人、加工したのも琉球人、運んで商いしたのも琉球人。北部九州人ではない。これは江戸時代の薩摩藩と琉球の関係に似ている気がする。欲したのは九州弥生人だった。欲したから南下して現地人に採集させた。やがて加工もさせた。最終的には貝の加工一切は琉球人が行うように。そういう流れだったかどうかはわからないが。

それが縄文後期からあった証拠が明刀銭の出土なのだ。

少し倭人を見直してみるといいだろう。それは日本だけではない、琉球弧にも及ぶ広範囲の人々だった、中国人が南朝は、北朝は、それぞれどこの倭人を倭人と呼んでいたのか?そういう細かいところまでそろそろ考える時期なんじゃないか?

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