●「おおさか」地名の由来分析
なぜ坂が少ないのに「おおさか」?
その理由は簡単。丘を削って谷を埋めたから。
その理由は大阪が昔は海だったから。

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1縄文海進の時代は大阪市は海の中。
2干上がってそれが湿地帯に。
3生駒の山地と上町台地だけが陸地だったのを、あとの時代にどんどん埋めて平地化した。
なぜ?
土地が少ないから、国が造れない。田畑が造れない。生産性を高めるため。

だから今の大阪は高低差が少なくなり、「大坂」から「大阪」になった。
坂がまだまだ残っていた記録は、昨日も書いたが蓮如の書簡や和歌が記憶している。


明応6年、蓮如が門徒に送った書状書簡にはこうある。
「此在所大坂ニヲヒテ・・・一于ノ坊舎ヲ建立セシメ」 蓮如 明応6年11月25日書状
echo-lab.ddo.jp/Libraries/真宗研究/真宗研究19号/真宗研究19号%E3%80%80010細川行信「「大坂建立」の御文について」.pdf


大意は「ここ大坂に・・・坊舎を建てました」
この坊舎が摂津石山本願寺の基礎になるわけだが、今の本願寺である。
そして大坂を詠んだ歌が全九首残されている。

又舟に のりてぞとをる わたなべの 磯ぎはとをる 大坂の山

わたなべ・・・渡辺の綱を祖とする海人族渡部一族がいたことから出た大阪湾地名
磯ぎ・・・磯際。おそらく上町台地西の砂浜。
大坂の山・・・生駒山地か上町台地。


いく玉の ひかりかがやく しぎのもり みちもひろげに みゆる大坂

いく玉=生國魂神社「難波大社・いくたまさん」
しぎのもり=鴫の森=生國魂神社(大阪市東成区生玉)がある森。当時まで生国魂神社は上町台地麓のくぼちで、うっそうとした森だった。


図1
石山は今や大阪城の中にある。秀吉は石山本願寺をつぶして城を建てたわけだ。
そここそが大坂。だから大阪城も本願寺も大阪のシンボルと言える。
本願寺には瀬戸内海海賊の村上水軍がかかせない。門徒である。これを倒すために信長・秀吉は紀伊水軍を取り込むことになる。


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それは台地の東側なので、蓮如は外海の瀬戸内側ではなく、東側の河内湾から見たと思われるが、中世当時大阪湾はもう湿地帯であり、和歌は想像で位置を変えてしまえる芸術なので定かではないが、7世紀の海進図では、河内湖がちゃんとあり、そこがかつては大阪湾だった。今もここは大阪城に東にあって近くに高津宮神社、森ノ宮がある。往古は河内物部氏の所領である。その証拠は草香津で、孔舎衙である。草香と地名があったのは、古代に靫負日下部が置かれたためだろう。「ひのもとのくさか」と詠まれたのが生駒山山麓のここで、今は枚岡市であり、ニギハヤヒの石切剣矢神社もここ。ゆえに物部氏の直轄地だ。そのニギハヤヒを生駒山山頂に祀ったのは、おそらく守屋を倒した蘇我馬子だろう。四天王寺は、それでも足らずに生駒が見える小高い上町台地荒陵に建立する。つまり二重の遥拝所が四天王寺になるだろうか。これが古代の祟り封じであろう。

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これでわかるのは、大坂は上町台地北部、東側の上の石山(いしやま)の地名である。ここ石山が本願寺の土地であり、のちの大坂地名の元となる場所である。秀吉時代までここの地名から大阪は「いしやま」で、だから摂津石山本願寺から地名になったが、秀吉は「大坂」地名を採って名付けたようだ。

大阪全体はそもそも東京と同じく谷が多かった。
地名で多いのが谷町・桃谷・細工谷などの谷地名と堂島・中の島・都島などの島地名、そして梅田に代表される新田地名である。

谷は河川が流れ、島は埋め立てる前にそこが海で、島があった証拠。
しかし谷は埋められ、島は削られる。先に書いた平地・耕作地・住居建築のためにだ。

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上町台地にもたくさんの谷があって、小川が流れていた。秀吉はそれらも埋め大阪城を建てるが、土木工事では湧き出る水にかなり悩まされた記録がある。つまり四天王寺も同じで、丘頂上を平地にしても水が湧いた。上町台地は水が湧く段丘なのだ。水の都と呼ばれる理由は淀川と大和川だけではない。そもそも湿地帯だから、埋め立てするときにそれらの大河は流れを変えられる。治水管理である。

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四天王寺以前、台地には難波宮があった。孝徳大王の都である。で、台地中央には一本の広い広小路が通っていた。難波大路である。上町台地の北端になる。難波江は瀬戸内を通じて世界と通じていた当時の日本最奥の貿易港だったと言え、孝徳がみかけによらずグローバル政治家であったことを語ってくる。

痕跡は住吉神社がここから瀬戸内を通って筑紫までずらりと並ぶことだろう。

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こうした航海の神はほかに京都の城南宮など(鴨川の京都の南出口部分にあたる鳥羽伏見そば十条通りにある)にも言えることで、神功皇后の故事にちなんだ阿曇一族による仕事になるだろう。神功皇后故事の意味は中央が航路を確保した(筑紫に頼らずに)、航路がわが手にあるという宣言を皇后の三韓征伐に置き換えてあるだけの、象徴的帝国主義的・侵略するぞ的な、意気込みでしかなく、実際には藤原政権下で実行されてはいない。それどころか天智はみごとに唐・新羅に敗北したとも書いてあり、それは要するに無謀な大王天智を誅殺してもよいというお決まりの理由付けでしかないのかも知れない。この侵略肯定の態度がのちの昭和軍部の台頭を許容することになったのは言うまでもない。



つまりいずれにしても古代から中世まで、安曇は瀬戸内海航路の中心者だったことになる。

だからこそ、住吉神社が図のように壱岐対馬まで置かれ、朝鮮半島への航路安全を護ったのだ。やがて宗像氏が天武時代に台頭すると、この祭祀は安曇から宗像へと移り、沖ノ島祭祀につながる。そして最終的に『日本書紀』完成で、沖ノ島、宗像三女神そのものは母・アマテラスにあったのではないだろうか?天武という初代天皇の外戚となった徳善の仕事である。スサノオの娘から、天孫つまり天皇家女帝のためのアマテラスへ、国つ神から天津神への昇格だと言える。しかし、徳善の後、宗像の住吉の神は宇佐御元山(おもとやま)へ移され、宇佐三女神になってしまうのだ。これは宇佐祭祀者秦氏の力と言うよりは、筑紫南部の旧反駁勢力へのにらみ、鬼門としたほうが政治的に納得できる。もちろん滅びた前の王朝=倭五王あるいは河内王家と継体一家の鎮魂もあろうか。


参考 新之介の中之島凹凸地形散歩 | 第1回『母なる川・淀川の誕生と中之島』 | 中之島の地域情報サイト「中之島スタイル.com」(Nakanoshima-Style.com)~中之島の気になるお店やイベント、ビル情報をご紹介!

画像 凹凸地形を楽しむ 大坂「高低差」地形散歩
次はこれ。

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地中に埋もれる秀吉の大阪城


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