■『播磨国風土記』印南郡大国里(兵庫県加古川市神吉町~高砂市伊保辺り)の条
「此の里に山あり。名を伊保山(高砂市の山・下に地図あり)といふ。帯中日子命を神に坐せて、息長帯日女命、石作連大来を率て、讃岐の国の羽若の石を求ぎたまひき。彼よりり度り賜ひて、、未だ御廬を定めざりし時、大来、見顕しき。故、美保山といふ。山の西に原あり。名を池の原といふ。原の中に池あり。故、池の原といふ。
原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈。広さ一丈五尺。高さもかくの如し、名号を大石といふ。伝へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」

大意
 このさとに「いぼやま」というやまがある。仲哀天皇(の遺骸)を祭神にし、神功皇后が石作りのむらじおおくを率いて、讃岐の「はわか」にある石を探し求めさせた。羽若から瀬戸内を渡ってまだ仮宮も置けずにいたところ大来が石を見つけた。それでこの山を美保山と名付けた。山の西に原があり池があったので池の原という。
この原の南側に人為的に作った石がある。まるで家のようである。長さは二丈、巾は一丈五尺。高さも同じくらいで、大石という名前である。聞くところによれば聖徳太子がおおきみだった時代に物部守屋大連が作らせた岩だという。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/47654152.html

この記述が正しいならばこの採石場は用明二年に死んだ物部守屋のための石棺を切り出そうとした跡ということになるだろうか?由来はともかくも、少なくとも石作連という者がいたのだろう。それがまず讃岐に石材を求め羽若から海を渡って揖保山の麓によい石を見つけたわけである。これが竜山石発見の所見である。」竜山石・五色塚古墳・石宝殿・倭国造 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)

かなり前の当ブログ記事である。

四天王寺に「橋」として使われていた長持型石棺の蓋が展示されている。


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言い伝えによれば、この蓋は荒陵(あらはか=四天王寺境内)出土と書かれているが、茶臼山古墳そばから出ていたものとの説もある。寺伝を信じるならば、四天王寺境内は以前は古墳であり、そこは物部氏の所領であったと、大阪高低差マップ『凹凸を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』には書いてあり、まずは「あらはか」は河内物部氏の土地だったとしてよいだろう。そこに古墳があったことになり、四天王寺建立の際にこの石棺蓋が掘り出せれたことになるだろう。茶臼山古墳そばから出たとは、果たして誰が言い出した噂かはわからない。茶臼山古墳はまだ古墳としては認定されておらず、2009年調査結果では水銀朱を塗った石室らしきものがあったと言うが、その前の1986年調査では埴輪も葺石もなにも出ていない。そもそも茶臼山は言うならば「荒陵古墳群」の最下段で隣接した氏族の墓かも知れず、「あらはか」陪塚の一部かも知れないから、物部氏の家臣のものという可能性はあるか?高さは25mしか
ない。「あらはか」という地名は四天王寺以前から大地上の平地耕作地のために開墾されたかららしい。大阪市全体が奈良以前から谷を埋めたり何度もされており、平地が少ない場所だった。

いずれにせよ、この蓋は高砂市産出であろう竜山石でできている。
そして『播磨国風土記』印南郡大国里の条を信じるなら、この蓋は物部守屋の墓として切り出されたことになるのである。そしてその石切場は高砂市の「石の宝殿」であることにもなる。


竜山石は

■竜山石(たつやまいし)
「兵庫県南東部高砂市-加古川市に分布する流紋岩質ガラス質結晶凝灰岩「竜山石」のうち黄色のものは、古墳時代前期から石棺として仁徳天皇陵古墳など畿内を中心に広く用いられてきた。その後、五輪塔や石仏の材料として利用され、江戸時代には姫路藩の専売特許としての地位を与えられた。近年では皇居や国会議事堂、京都御所の壁材として利用されている。古来より経験的に使い分けられているが、硬さや粘性を特徴付ける「白斑」とよばれる半径数mmの白い鉱物や「筋目」といわれる青い脈の正体すら明らかではなかった。加古川市-高砂市には古墳時代の石棺が多数出土している。

竜山石が古墳石室材として採石されはじめたのは、古墳時代4世紀である。古墳時代5世紀に造られた仁徳天皇陵古墳をはじめとした奈良・京都・大阪に点在する大王の墓に用いられている長持形石棺のほとんどが「竜山石」で造られており、大王などの権力者が存在したことが強く推測される。奈良時代になると、「播磨国風土記」(717 年)に石材に関する記述があちこちに登場する。」
http://www.hyogo-c.ed.jp/~sizenkagakubu/407kakogawahigashi2.pdf


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石の宝殿とは



高砂市阿弥陀町の生石(おうしこ)神社にある、古墳時代の石材採掘場の呼称だが、由来は画像背後に見える凝灰岩の山=宝殿山~風土記が言う伊保山で現在二つは板一枚のかけ橋で隣り合う同体山~に由来するので、おそらくその名前は採掘当時から古墳の石棺に使われていたために「宝殿」?とされていたのかと思える。「いほ」は揖保郡と一致する読み方。渡来あるいは海人阿曇族の地名である(摂津三嶋に疣神社あり安曇磯良祀る)。


長持型石棺の構成図
長持ち型石棺は家型石棺のひとつまえの形式で、4世紀仁徳天皇陵~終末期直前までに使用されてきた組み合わせ式石棺である。家型石棺は刳貫(くりぬき)型。

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刳り貫きするのは軟弱な凝灰岩では非常にむつかしく、阿蘇ピンクを除いてはまず近場の花崗岩など硬い石が使われたが、竜山石は凝灰岩としては粘着性が強く、加工に耐える。しかし時代的にはそれが使われたのはまだ飛鳥時代のようには渡来人石工が少なかったせいか、組み合わせ式に利用されたようだ。竜山や阿蘇ピンクのような凝灰岩で刳り貫いたとすればかなりの技術者がいなければならないだろう。



さて、四天王寺石棺蓋が守屋の棺だったとしたならば、守屋の墓は四天王寺になる前の荒陵の地にあったことになる。それは特に奇抜なことではない。荒陵という上町台地全体が物部氏の所領だからだ。むしろ大阪城前の鵲森ノ宮~四天王寺までを守屋が管理していておかしくはないし、まして播磨の加古川水系の竜山石をかつて物部氏が独占していてもなんの歴史的疑問はないのである。物部氏は蘇我氏以前からの天皇(大王)の側近であるし、あるいは大王以前から近畿一体の王であったとしてもおかしくはない氏族なのである。記紀神武東征説話ですら大祖先ニギハヤヒがいたことは認知しているわけだから。

地形で言うなら、大阪の上町台地は、沖積してくる淀川・大和川の流土が堆積してできた沖積台地=海岸段丘。白亜紀以前からそこにあったものだ。今でこそ大阪平野の真ん中にあるように見えるが、西は瀬戸内、東は河内湾という湾状古代湖であり、その「古・河内湖」のつきあたりが今の枚岡市で、石切剣矢神社があり、ニギハヤヒとウマシマジを祀った石切山がご神体である。そして神武ゆかりの孔舎衙の津もそばにある。ニギハヤヒと神武はここで最初に出会うのだ。

播磨へは上町台地突端の浪速の海峡を渡ればすぐ。

物部氏の古墳と石材を調査した時、彼らが四国の讃岐から兵庫にかけてから石材を調達しており、それが播磨の秦氏の重要な仕事だった時代があったと気づいた。播磨の揖保郡を中心に秦河勝の伝説と渡来人痕跡が繚乱すると気づいた時から、その背後にいたのが最初物部氏だったことにすぐ行き当たった。要するに天皇が出現する前の4世紀倭五王時代から、物部氏も大王の一角だったではないかと。

聖徳太子時代、つまり伝承ではない歴史では蘇我馬子の時代、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたい理由ははっきりしているのだ。それは決して神仏崇拝の宗教対立ではなく、藤原氏が蘇我氏を倒すのと同じ新興勢力の勢力交代劇でしかないのである。政治的抗争なのだ。『日本書紀』はここでもうそを書いたのだ。


四天王寺になぜ守屋廟があらねばならぬか。
これを考えたら、そこに行きつく。それは必然だろう。
誰が祀ったか?祀らねばならぬのはそれを倒した本人=馬子しかあるまい。
森ノ宮から荒陵に遺体を移したのは聖徳太子ではなく馬子である。
上町台地の北の端・森ノ宮に鵲神社を置いたのも、祟り封じであろう。

09-01-01

9:地形からみた「上町台地」の歴史 ~ 上町台地(阿倍野) | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp)



※鵲森ノ宮神社とJR環状線森ノ宮駅は大阪城のやや北東に隣接。
上町台地の中生代沖積地層は南の泉北から天満まで続く。南下すると河内渋川に至り、河内湖まですぐである。なお、奈良時代から台地にある多くの河川の谷は埋められ始め、秀吉時代には台地はほぼ平坦化。大阪市営地下鉄造営による大陥没で、さらに大阪市全体の坂と谷は埋まっていき、今のあまり固定差のない大阪に文字も変わった。かつての大坂は、蓮如の記述によると、おそらく急こう配な丘の上にあって、坂でつながった場所だったと考えられる。いわゆる石山本願寺がそこに建てられ、摂津と河内はあわせて「大坂 おおさか」になる。それが明治時代にはほとんど坂も埋められたために大阪表記に変えられたという。

参考 大阪高低差学会・新之介著『凹凸を楽しむ大阪「高低差」地形散歩』





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