三重県伊勢神宮の斎宮歴史博物館のHP斎宮歴史博物館:斎宮千話一話 (mie.lg.jp)はなかなか博物館らしくないことまで書いていて楽しい。
中でも64話の「謎が謎呼ぶ出雲展」記事は特に面白く、天啓ヒントがいただける。

一部引用しよう。

斎宮歴史博物館:斎宮千話一話 (mie.lg.jp)
その② 銘文入りの剣の形
「古墳時代の展示コーナーでは、複製品ですが、松江市岡田山1号墳から出土した「額田部臣」の銘の入っている6世紀の大刀が展示されています。

「部」というのは、「部制」とか「部民制」とか言われる支配システムを表す漢字で、ある仕事をする人々を表す「部」(土器作りの「土師部」、軍事の「物部」、蔵の管理の「蔵部」など)や、中央の有力者の私有民であることを示す「部」(日下部=草壁、穴穂部、刑部=忍壁、新田部など) などがあります。

この銘文は、文献ではない実物資料から「部」の文字が出てきた最古のものなのです。後者は「名代 なしろべ」と呼ばれ、大王やその子供達の名前や宮殿の名前を残すために作られたものとも言われています。そしてこの大刀の「額田部」は、額田部皇女、つまり推古天皇に関連するものと考えられています。推古天皇は母を蘇我堅塩媛 そがのきたしひめといい、蘇我氏の血を引く皇族です。そして額田部氏は、『出雲国風土記』にもこの地方の豪族として出ており、ヤマトとの深い関係がうかがえます。


ところで、このように考えると、出雲東部には蘇我氏の影響が強く及んでいた、ということになるかと思います。実際、この周辺では、新羅など朝鮮半島の影響を受けた環頭大刀と呼ばれる装飾刀が6世紀の後期古墳から多く出土しており、それらは蘇我氏の影響下にある豪族に配布されたとする説もあるのです。何もかもが出雲東部と蘇我氏の関係を示唆している・・・ように思えるのですが。

実は岡田山1号墳の大刀は環頭大刀ではないのです。より古いタイプで、出雲西部に多く、蘇我氏系ではない大王候補を推して滅ぼされた物部氏系の刀ではないかとも言われる、円頭大刀と呼ばれる装飾刀なのです。しかも岡田山1号墳はヤマトとの関係を形で表すと言われる前方後円墳ではなく前方後方墳。これはいったいどういうことなのでしょうか。」


5bd3a6c09bb668460d179767326e3b08


蘇我氏が出雲東部の松江周辺を牛耳っていて領土を持っていた。そして西部出雲は物部氏の領地だった・・・としたら俄然面白くなるわけである。このサイト管理者はそのことを示唆してくれている。


unnamed


要するに岡田山が前方後方墳という出雲東部的な高麗系階段墳=蘇我氏の墓であろうはずなのに、中には物部氏の剣が入っていると。だったら蘇我氏が中央で勝った話が実は飛鳥以前の出雲で起こった勢力争いを背景に描かれた?とも考えつくのだが・・・?

出雲の事件を背景にして飛鳥の丁未の変が描かれた?とするなら、すべての私説は逆転してしまうので面白いのだ。そうではなく、実際に丁未の変があったことから、岡田山にあとから剣が入れられた?横穴式古墳ならそれは簡単なことである。いくらでも追送物が入れられる。であれば、飛鳥で起きた事件を出雲に置き換えたという私説は安泰だが。好奇心はどっちでも面白いと思っている。

images


神庭荒神谷や加茂岩倉遺跡の銅剣・銅鐸は出雲西部の斐伊川に近い。つまりこの管理者の言を借りれば物部氏の所領に埋められたわけである。


p020601


ならばあれは物部氏のものざねで、守屋を殺した蘇我氏が手にしたものであるから、藤原氏が蘇我氏を殺してから、全部祟りなきよう埋めた=鎮魂した?

あるいは正反対に、物部氏を倒した蘇我氏が、鎮魂のために物部氏のものざねを、祟りなきよう埋めた?

蘇らぬように×をした理由が、そうするとにわかに理解できる気がするが。


神話で言うなら、スサノオが先に入っているところに大国主が娘を奪いにくるのと同じ構図になるのも面白い。スサノオ=物部氏、大国主=蘇我氏、娘=剣と銅鐸・・・いやあ、やめられないね。妄想。

いかが?
信じる信じないはあなた次第ですわ。いつもどおりに。
しかしこれは絵にかいたような敗者と勝者の考古学である。


面白い!座布団800枚。



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村




原始・古墳時代(日本史)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村

民族学伝承ひろいあげ辞典 - にほんブログ村