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経津主神の後裔と伝える氏族
 「経津主神を遠祖とする氏に関しては、歴代をあげる系図を伝えるのは下総の香取連くらいです。その本拠地・香取郡が東南隣の匝瑳(そうさ)郡と西北隣の信太(しのだ)郡に挟まれており、前者の物部匝瑳連も後者の物部志太連(信太連)も共に物部小事連(懐大連の子で、仁賢~継体朝頃の人。『続日本後紀』承和二年三月条に東夷征伐の伝承が見える)の後裔とする系譜を伝え、かつ、匝瑳郡唯一の式内社・老尾神社(匝瑳明神)の祠官家に香取連があること、香取・匝瑳両郡には玉作という郷村があることなどから、系譜不明の香取連は物部系の匝瑳連の分岐ではないかとも考えられます。」
※香取郡、匝瑳郡は千葉県北部(下総国)、信太郡は茨城県南部(上総国)の香取神宮・霞ヶ浦南部地域。

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香取神宮、鹿島神宮 - Forum_tokyoblog (matrix.jp)


 「現在に伝わる香取氏の系図(『続群書類従』等に所収)では、
経津主尊-苗益命-若経津主命-武経津主命-忌経津主命-伊豆豊益命-斎事主命-神武勝命……」と続けます。


この初期部分は混乱が多く、信頼性にきわめて乏しい記事ですが、それでも「フツヌシ」「伊豆」を名にもつ者(「斎事主」も「斎主」でフツヌシのこと)がいることに注目されます。」


「なかでも、若経津主命こそ、その表記のとおり経津主神の若(息子)であって」
「ワカフツヌシノ命は『出雲国風土記』秋鹿郡大野郷及び出雲郡美談郷の条に見え、同書の出雲郡の神社のなかにあげる県社がワカフツヌシ神社と見えます。」


このように物部氏の上総~下総香取神宮神域における眷属(香取氏子)である香取氏系譜では、和加布都努志命は経津主神の孫となっている。その物部氏の子孫であろう神が、なにゆえに無関係そうな出雲大社の、しかも正面の大事な心柱の前に置かれるのだろうか?


この神は現在、常はどこに祀られているのかは知らないが、本殿の建て替えなどない限りはいつも心柱前に鎮座するようである。畳二枚分ほどの高さの台がこの神の居場所らしい。


さて、経津主神を物部氏の斎主(さいしゅ。神に奉仕する主祭祀者。つまり物部氏なら統領であり大連になるか?)と置き換えれば、大国主=「蘇我馬子・蝦夷の祟る神霊」とする立場では、蘇我馬子の時、経津主神は物部太媛で、その子蘇我蝦夷は苗益命、入鹿が和加布都努志命に該当することになるだろう。

民族学伝承ひろいあげ辞典 





■蘇我馬子の妃
1 『紀氏家牒』・・・物部守屋の妹・太媛(ふとひめ)
2 『日本書紀』・・・同  上
3 『石上振神宮略抄』「神主布留宿禰系譜」・・・蘇我蝦夷の母親は守屋の妹「太媛」
4 『先代旧事本紀』・・・物部贄古の娘の鎌姫大刀自=守屋の姪(うそ)
  物部守屋公の妹は物部連公(贄古の)布都姫夫人。字は御井夫人。亦は               石上夫人。(実の妹を弟が夫人にするわけがない)守屋の弟の物部石上贄古連公は異母妹の御井夫人を妻と為し、四児を生む(実の妹を妻にする?明らかに馬子妻の事実を隠匿)             物部贄古の娘の鎌姫大刀自(うそ)
※『旧事紀』の記述には同様のありえない近親結婚の記載が瑞所に見られるので、このケースでは信用するに足りない。
民族学伝承ひろいあげ辞典
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物部太媛~入鹿、(『日本書紀』)経津主神~和加布都努志命の系譜

太媛(布都ふつ媛)ーー蝦夷ーーー入鹿
経津主尊----ー苗益命ーー若経津主命

そっくりな系譜。
経津主神は『日本書紀』にしかない神。

では入鹿がどうして全国に牛を飼うことを広めた神になっていったのだろう?

入鹿の祖父は馬子で、父は蝦夷であるが、こうした名前が正しい表記かどうか、蘇我氏を滅ぼした藤原氏が関わった史書では名前を卑しくしている可能性は問われてもいい。古代史で牛飼と言う名の人物は何人かいる。実際に牛を飼っていたわけではあるまい。牛飼いと言えば牽牛織姫が思い出されるが?ここはまだわからない。





こういう筆者なりの落としどころを書くと、歴史に落としどころを求めるのは間違っているとよくいう人もいるが、こうした結論も、結局は一時的な納得法であるだけで、またあとになって新事実が分かれば別の落としどころを見つけておくことになるわけで、要するに問題山積みの古代史においては、いちいち?で終わらせていたらなにもかも先送りになってゆくばかりなのである。一応の答えを出して次へ次へ片付けていかねば、頭の中が思い残したことばかりになってしまうからやってられなくなるのである。


さて、和加布都努志命について検索でいくつか面白いサイトに当たった。
そのどれもが凛太朗亭日乗というブログサイトの出雲大社内部見聞録を手本にしていた。
http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=553


どうやら『出雲国風土記』だけが大国主の子供として布都努志命をあげており、『日本書紀』では正反対に大国主出雲を譲らせる大和の神=物部氏となっている。出雲ではどうやら風土記の神を大国主の子として出雲大社に祀ったらしい。そういうことを勝手に国造ができたとは思えないから、当然中央からの指示だろう。すると不比等がそうさせたとして、最も最前の参拝者の真正面にこの神を置いたのだから(おまけに心御柱しんのみはしらの神として)、実は参拝者が参っている中心は内部神殿にいる大国主=馬子よりも入鹿なのではないか?つまり入鹿は直接殺された、一番祟るはずの神なのだから、当然そうあってしかるべきだろう。そもそも経津主神は『日本書紀』にしか登場しないのだから、『日本書紀』が勝手に創った神であり、その大元が『出雲国風土記』なのだとまるっとわかるではないか。
※出雲風土記と書いているサイト多すぎ。正しく『出雲国風土記』でお願いしたい。


で、あるサイトに、この「祟る」と「崇める(あがめる)」が同じ意味から出たのではないかと書いてあった。しかし文字をよく見てほしいが、二つは全然文字が違う。「たたる」は示すの上が出るで、「崇める」は示すの上は山にウ冠なのだ。語源として「たたる」と「あがめる」は全然意味も言葉も違う。それだけ書いておこう。
http://blog.zige.jp/atohiko/theme/6016.html


またあるサイトには、大社造りの神社祭神はどこでも、どんな祭神でも、右や左にそっぽを向いているから、出雲大社の大国主が特に祟る神だとか、倭に背を向けているなどとは言えないとあったが、比較するなら大社造り以外の形式神社で右左そっぽを向いた祭神があるかどうかを比べねばならないのがわかっておられないようだ。同じ形式の社を比べても、同じ様式になっているのは当たり前である。


矢作のどうたらこうたらは気になったが詳細は忘れたのでまたいずれ調べる。


凛太郎氏の長すぎる出雲訪問サイトで一番大事だと思えたのは、祟るほどの神、やっつけられた神なら、むしろもっと大事にやさしく扱わないか?という疑問の言葉であろう。なるほど、確かにそれはあるだろう。しかし相手が自分が殺した蘇我氏ならどうだろうか?これは気味が悪かろうし、絶対自分のほうは向かせたくない相手ではないか。寝覚めの悪いやりかたを不比等は入鹿にしたではないか。

しかし、実際に出雲の本殿の中に入れたのは素晴らしい体験だし、参考になった。神殿の内部に祭神の神殿があるとは知らなんだ。つまり彼の言う通り、本殿は内神殿の器だということなのだろう。もちろん神社とは神霊の器でしかないことは明白だが。そもそも原始自然神は山や川や海や台風であって、それを鎮魂するための容器が神社なのだから。

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