奈良の纒向遺跡からは九州の土器は0.1パ~しか出なかったという報告があまりにも広まっている。
これが意図的なウソであろうと筆者は考え続けている。

なぜならば、
纒向が邪馬台国であったなら、当然、魏志に書かれたように出先機関を九州に持っているわけだから、人の往来がない訳はないからである。

いや、だからこそ、纒向から九州伊都国へは人が行ったが、逆は無用だったんだ・・・そんな屁理屈があるはずはない。大陸の騒乱の情報を取り込むがために最前線に一大卒を置いた、あるいは九州内部の情勢を知るために置いた、どっちにしたところで、情報が一方通行だったはずはない。

松木武彦も言っているが、先進地だった九州では、弥生人の人口が爆発し、それは稲作によるとすれば、あぶれた人口は当然、新天地を求めて移住しなければならない。
すると考古学では、いの一番に遠賀川の弥生人が日本海沿線で東北まで出かけている。次に西部の菜畑周辺からは有明海で南回りに日向、豊へ向かう。

神武東征伝説がその記憶かどうかはわからないが、この九州西部の弥生人のコースは、神武コースに似ているとも見える。


考古学資料はどうなっているだろう?

南九州の成川式土器(古墳~飛鳥~奈良時代)や吉備式土器が出る大阪湾岸の遺跡
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成川式土器









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しかし成川式は奈良県からは出ていない。南九州から弥生時代に大阪湾に来た人たち・・・阿多族?・・・は内陸部に入らないから舟の民だったようだ。



では北部九州の土器は?
唐古・鍵には来ていたらしい。


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唐古・鍵出土の須玖式土器復元 紀元前3~3中
(どことなく免田式に似ている?)


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熊本県免田式土器1~4世紀



纒向は怪しい?

  「纏向遺跡からは、関東系・東海系・山陽系・山陰系・北陸系など各地で作られた土器が多数出土しています。纏向遺跡の説明書にも、他の一般的な集落と異なる点の一つとして「他地域からの搬入土器の比率が全体の一五%前後を占め、かつその範囲が九州から関東に至る広範囲な地域からであること」を挙げています。

 去る(注:2003年のこと)十一月二十三日に桜井市立埋蔵文化センターへ「纏向遺跡展」を見に行きました。ところが九州系の遺物は、土器の欠片一つすら展示されていないのです。橿原考古学博物館にも「纏向遺跡のコーナー」にたった一点の土器片しか展示されていませんでしたから期待はしていませんでしたが、それにしても、と不審でなりません。

 後日電話で訊いてみると「橿原考古学博物館に展示されている土器片は、纏向遺跡と同じ時代の大分県あたりで出土する土器とよく似ており、大分県の関係者にも確認済みなので九州出土の土器として展示されている。北部九州から搬入されたと思われる土器片は他にも数片あって、過去の報告書にも記載されているが、倉庫の奥深くに収容されていて取り出すことができず、今回は展示できなかった」とのことでした。しかし「北部九州製の土器はきわめて少なく、他の地域製の出土土器の一%にも満たないし、数点の土器片以外に北部九州系の出土遺物は全くない」のが現状だそうです。本来なら土器片も、他地域製以上の割合で出土するのが当然かと思われます。」
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki.htm





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このグラフも同上サイトから。
石野博信著『邪馬台国の考古学』吉川弘文館、2001年刊
表14 大和・纏向遺跡の外来系土器の比率」


この際、石野の纒向土器調査も、奈良県の調査結果や割合も、疑わしいと申しておく。
なら研関係者の、遺物から九州的なものは隠そうという意図はありありと見て取れる。それだけではなく、ずいぶん前から、考古学草創期から、特に小林行男以後から佐原真前後までの学者は信じられない傾向にある。

纏向遺跡の土器分布
このように奈良研関係機関は徹底的に九州土器を見せない作戦をとっている。



唐古・鍵からは須玖の土器が出ている。
これは北部九州では板付式、遠賀川式についで古い土器である。
たったひとかけらだったからか、発表された。

土器以外ではどうだろうか?

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筑紫型送風管が纒向に入っている。
また鏡の副葬風習ももともと九州のものである。
古墳の横穴式石室も九州からだ。

しかし、全部近畿人が持ち帰った技術だと言われたらどうしようもない。


2世紀までの九州技術は確かに、よそから来た奴らが持って帰る。稲作はしかしどうか?これもわからない。技術は持ち帰れる。製鉄もだ。


鏡を山ほど墓に入れる風習は甕棺時代から九州だけの特権的副葬習慣だ。纒向で、それが採用されたからこそ、三角縁神獣鏡の大量複製も始まるのだ。だが黒塚古墳を見てもわかるが、中心的な鏡はやはり漢鏡(画文帯神獣鏡)である。


平原以前から、九州の甕棺には漢鏡が埋葬されていて、そのデザインは神獣鏡のような中国南方神仙思想のデザインではなく、幾何学的な内行花文鏡とか画文帯、あるいはTL鏡や草文鏡といったノット神秘的なデザインが多く、それは漢~魏~晋の好みに合致していた。ところが近畿に多いのは呉の好む神獣鏡。ということは、近畿には九州南部の狗奴国が入ったとなってしまうわけである。





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