1 日本古代史にはなぜ神話が前置きとして存在するのか?
2 天孫神話はなぜ必要だったか?

この二つについて考えたい。
さして大変な作業ではない。

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『日本書紀』は天皇という最高機関を必要とした。その理由は、その天皇を擁立して、支える摂政家そのものが正統であることを証明する証拠品(錦の御旗)だからだ。

すなわち記紀とは、それぞれの摂政家のための史書であって、決して天皇・天孫のための史書ではないということになる。※摂政家はのちの言葉なので、蘇我時代なら正しくは大臣(おうおみ)・大連か。律令以降では摂政は令外官なので左大臣になるが、現代語で宰相とでもしておくか。


「それぞれの摂政家」とはむろん『古事記』が蘇我氏、『日本書紀』が藤原氏ということだ。

だからこそ、記紀両方冒頭にまず神話が置かれたわけである。

神話は史書本編・・・言い換えると摂政家の正当性を言うがための前置き、前振りでしかない。
前置詞、落語なら本題はほったらかして枕のことばかりを、これまでの日本史・神話研究は真剣に調べていたのである。



と、これが二つの?への解答である。


天皇の外戚には記紀双方を見ると、葛城氏、物部氏、蘇我氏、胸肩氏と続いてゆき、最終的に『日本書紀』では持統を担いだ藤原氏が、息長氏という未知の氏族を外戚として、摂政となって登場する。『古事記』では推古を担いだ蘇我氏が最終的な外戚=勝者=摂政家となっている。なぜそう言えるかと言うと、最後の章が『日本書紀』は持統女帝、『古事記』は推古女帝でそれぞれ終わっているからである。


これらの外戚をそれぞれ神話では天皇の前に存在した大王家として、ひっくるめて国つ神として扱ったとKawakatuは考えるに至った。

●『日本書紀』の神話構造
葛城氏(武内宿禰子孫)=スサノオ
物部氏=フツヌシ=ニギハヤヒ(大物主)
蘇我氏=オオクニヌシ
宗像氏=タケミナカタ
鴨氏=アジスキタカヒコネ
安曇氏=八重事代主
漢氏=スクナヒコナ
持統女帝=アマテラス
藤原不比等=オモヒカネ(理想の宰相武内宿禰を不比等は尊崇していた。それは実は蘇我馬子でもあったろう。父鎌足のイメージには馬子と宿禰が託されていた?内大臣という)

つまり畿内にあった天皇発祥前の大王家を、すべて出雲神話に押し込んだ、それこそが出雲神話であると考えるのである。

しかしこの比定からどうしてもはみだしてしまう歴史上の一家がある。
葛城氏を吉備氏とともに滅ぼしたと『日本書紀』が書く雄略大王家・・・すなわち応神~継体までの「中の王朝」「河内王朝」だ。

さらにその前の3世紀の女王国と狗奴国については、アマテラスとスサノオの対立構造で説明してあると考えれば、なぜか弥生と飛鳥の間にあった古墳時代の大王を神話は無視しているのである。

その代わりに神功皇后という応神の母親については懇切丁寧に、神話外で書き募り、ついでに魏志の倭人伝まで引き合いに出して彼女の存在の正当性を(卑弥呼は中華が認めた女王で、神功皇后はどうも卑弥呼じゃないの?みたいな)言おうとしている。またヤマトタケルには雄略が仮託してある。

しかし『日本書紀』は神功皇后を、実は息長氏の外戚としての正当性のための前置きにしてある。そのためには応神以下の正当性、さらには婿入りした継体の正当性まで創ったと考えたいのである。つまりあったかどうか知れない話を、『宋書』『隋書』などから潤色した大王家として描き出した。あきらかに中華の史書を読みつくした上で、史書法則にのっとった描き方、書き方をしてある。壬申とかの年代の決め方はまさに中国の天命思想の着想である。


まさに天才的脚色である。
これは史書ではなく、歴史小説なのだ。
神話は、それら捏造された、正統化された、捻じ曲げられた時代劇が、太古にもあったのだから、あとからあってもおかしくない・・・というための前置きだった。つまり歴史は繰り返すものだと知っているのだ。

歴史が繰り返さないと考えたのは、戦後のマルクス主主義唯物論者だが、おろかなことだ。


「だが、先史時代の人も、古代や中世や近現代の人も、同じホモ・サピエンスで同じ脳の持ち主であるかぎり、同様の人口や環境のもとでは、同じように認知し、同じように行動する局面をもつ。したがって、相似(あいに)た環境条件のもとでは、面台や生業形態の表面的な違いを超え、底の部分でよく似た文化や社会が営まれることになる。」松木『列島創世記』第四章 やはり歴史はくりかえす

人間は行動原理が全員同じ。洋の東西も年代差も関係ない。ゆえに歴史は繰り返されて当然なのである。


(これはついでだが、人類は類人猿以下の地球上のあらゆる生命体と、RNA、DNA基本構造を共有しているのだから、人類だけが地球外から来たはずはないのだし、生命そのものが地球外から来たのなら、地球以外に生命体があるはずだという考え方の正反対に、地球でしか生命は生まれず、むしろ地球の断片が宇宙に飛んで行ってほかの星に生命体を芽生えさせる可能性はある、という考えもあることは知っておくほうがいい。)


『日本書紀』には時代のつなぎ目に無理が垣間見える部分がある。
そこをよく見極めることだ。卑弥呼~応神、継体大王~飛鳥、蘇我~藤原、などはいい例である。