尼崎市に久々知須佐男神社があり、中世は久々智氏が住んだと由来にある。
菊池家文書館~久々知須佐之男神社 (itscom.net)

しかしKawakatuの地名の法則では、氏族からついた地名はちょっと考えづらいというのが持論。もし氏族からついた地名なら、その氏族が出てきたところの地名がちゃんと「くくち」だったはずである。中世武士は地名名乗りが順当であり、尼崎がそういう氏族地名伝承を持つのなら、必ず久々智氏はどこかのククチという場所から出てきて、そこに地名をつけたはずである。

好事家ならまずはこういう説は一度は考えるはず。

「麹智とも書く。大彦命(おおひこのみこと)の後裔。阿倍氏族。

発祥は摂津国河辺(かわべ)郡久久知で、今の兵庫県尼崎市久々知にあたる。クク・チとは、水がクク・ル(潜る)ことに由来する、砂地のようなところ。

 

倭名類聚抄』の菊池の項に「久々知」とあってククチと読んでいたことが知られ、

『新撰姓氏録』摂津皇別に「久々智。同上(阿倍朝臣同祖。大彦命之後也)」とある。

後世、肥後国よりおこった菊池氏は、この久々智氏のこととの説がある。

 

ククチと読んでいたことから、『魏志倭人伝』で邪馬台国と対立抗争していた狗奴国国王の狗古智卑狗 (くこちひく)は菊池彦(きくちひこ)ではないかとみるムキもある。」
久々智(くくち) ≪古代珍姓≫ - さあ~てと 帯しめましょか。 (goo.ne.jp)




当たり前すぎてもはや陳腐な説になっている。



「くくち」は「くぐる」・・・くぐる=潜る。和歌・「ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなひに水潜るとは」・・・水にもぐるモノとは?を考えよう。

「くくる」は括るで、古語では袋の口、あるいはそこをしばること。
「くぐむ」は屈むで、体を曲げてかがむこと。
「くくる」は潜るで、水中をもぐる、かいくぐる、何かの下を通り抜けること。また「漏れる」。

以上「全訳読解古語辞典」昭和九年版「広辞林」参考

くぐっている、くくっている地形とは、つまりはくぼ地、断崖、盆地である。
くぼんだ土地。沈み込んだ地形。

「くくる」は転じて「くぐつ 傀儡」=海女(あま)の呼称になった。
一説に海女が背負っていた籠の名前。藻を入れたりする籠。

のちにくぐつは人形、あやつり人形、忍者の使うだまし人形。転じて「かいらい」=あやつられるままに動く人、天皇。


海人族には海女・海士と漁師がある。それがやがて食えぬ時には海賊になるのが倭寇・倭人であろう。
そして古代中央集権のもとに海部があったが、その氏族は安曇部・紀部・海部・壱岐部・加茂部・波田部、羽田部・秦部などの部の民であった。


久々知=鞠智 きくち
久々知=傀儡 くぐつ
久々知=ククリ=キク理である。

白山菊理姫は白山の女神として祭られたアマテラスの眷属と言われるが記紀には記述がない女神。「きく」は「聞く」「くぐる」で、「り」は理でことわり。理を聞くモノ・・・修験者で、その出自に紀氏多し。そのわけは鉱物探索での山岳入山。そこから修験修行は隠れ蓑となり、修験はのちに道として独立。鉱物は豪族の武器、金銭に必要。

鞠智彦 菊池彦 狗奴国  
狗古智卑狗 くこちひく くこちひこ きくちひこ

熊襲を山の民だと決めつけてはならない。曽於族は少なくとも隼人であろうが、山の隼人、海の隼人があった。球磨族とてそうだったかも知れぬ。対面した呉とつきあうには船がいる。「くこち」が問題だ。くこ地とはどんな地形か?

潜れる男=くくちひこ
潜れる女=くくちひめ

海、山を川はつなぐ。


太古には、今、氷川・白川・緑川の流れているあたりは、海底である。そこには深い広い断層があった。別府~島原地溝帯と言う。そこが阿蘇の噴火で徐々に火山灰や火山岩で埋まっていったが、川は残った。この九州を斜めに縦断する地溝帯は、いまだに中九州の熊本県・大分県を二つに分けている。

文化圏の違いがそこにある。古代から今までずっと。弥生と縄文のすみわけである。

しかし南部は姶良・鬼界カルデラ爆発によって住めなくなり、上野原遺跡の縄文人は絶滅あるいは北へ移住した。移住先は日向、豊、南西諸島、琉球諸島、四国などだったろうか?(飢えた縄文人がたまたま土佐に流れて、仕方なく人を食ったとしてもあり得ぬ話ではあるまい。)

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ともあれ、その地溝帯は「くぐもった」=えぐれたくぼ地である。
一昨年、この地溝帯の東の淵で地滑りがあった。大分県大野町。

つまり熊本県菊池とはそういう地形を言うのではあるまいか?
くぼ地なのだ。


               別府島原地溝帯
地溝帯と活断層がリンクして同時存在する。
そういうくぼ地=キクチだからだ。


だから久々知彦・・・くぼ地の管理者なのではないか?


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このライン上には、古墳時代の靫負の横穴墓(靫の装飾墓)がずらっと並ぶ。



そして人吉市の北のあさぎり町(旧免田町)から、呉の金メッキ神獣鏡が出て、


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(神獣鏡は呉の鏡。鍍金鏡は日本に三枚しかない)


免田式縄文土器はこのライン上を日田へと向かうのである。

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さらに別の縄文土器轟土器は日向へと四散してもいる。縄文人は太平洋へ去っていった。


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古墳時代には5世紀継体大王直前ころ、靫負によって分断されていた狗奴国と旧女王国はすでに、ともに近畿へ動いており、靫負はむしろ北部九州の筑紫国造、豊国造、火国造を取り囲むための防衛線だったという逆転の見方も可能である。すると鞠智城もまた、南部の熊襲ではなく、むしろ南部から北部磐井を監視する意味があったとも考えついてしまう。面白い。

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