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魏志倭人伝は奴国が二回出てくるが、そのどれかは狗奴国だとなる。しかしそうかどうかもう一度考えたい。


魏にとって有利になるように、まず倭人伝は倭を会稽東治の目の前にあると書いた。呉をけん制するためだ。しかしそう書いたのは魏ではなく、魏から政権を奪った西晋の人間である。西晋や彼にそういう造作をする必要はあったのか?それは呉が完全消滅してなかったからではないか?残党がいて、魏が敗れたからまた動き始めていた、ということはあり得ぬことじゃない。


だから後年に作られた史書でも、そういう位置関係を必要としたとしたい。


奴国は狗奴国と書かれてしまった。卑下した語句である「狗」をつけられたのは、魏・西晋から見た敵国だからに相違あるまい。実際は南の奴国であり、北部九州にあった奴国は、その出先機関だとする。邪馬台国の、いや女王国の出先機関が伊都国だったように、両者は当初和合して並立していたのであり、奴国出先が南部の奴国より大都会になってもおかしくはなかろう。伊都国も大和か吉野ヶ里か知らないが、大都会だったわけだろう。首都なんかその時代には隠しておきたい秘境の寒村かも知れまい。

「みるあるもの少なし」の卑弥呼がいる場所はそういう秘所であるから日田盆地でもよいのである。



要するにその後の大陸情勢で、伊都国と奴国は仲たがいする。政治的に、つく相手がすれちがったのだ。それで本国同士も争い始める。


考古学的に、筑紫の人や土器が東のヤマトへゆくよりも、ヤマトから先進地筑紫へ人と土器は動いていることがわかっている。それは2世紀~3世紀がピークで、筑紫のほかの土器、遠賀川系土器は日本海と太平洋側に出てくるのである。外側にもっと早い弥生時期から、「稲作・金属器とともに伝播した」わけだ。遠賀川の渡来人たち(遺伝子的に半島系強)は非常に早くからそうやって動いた。しかし博多以西の渡来人たちはなかなか動けない。対馬海峡には遠賀川系の人がいるし、くるっとまわって有明海から筑後川で日田を抜けて、大変遠回りせねば瀬戸内にはいけない。するとどうしても南部を回る航路か、宮崎へ抜ける陸路は必要になるのだ。つまり魏志の言う、九州島内部の事情ーーー水行陸行の道を知っているのなら彼らのはずである。菜畑周辺の西九州渡来人のはずだ(遺伝子的に中華系強)。



それが神武なのだ。それが狗奴国だったのだ。彼らが河内王家・倭五王なのである。


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