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応神・仁徳陵に比定されている河内の大古墳群。
その由来を考えるには、岡山の二基の「つくりやま」は外すわけにはいくまい。
造山と作山の二つの大古墳だ。

文献史学が河内王朝と呼ぶ、これらの大古墳の主は誰かと言えば、まず岡山吉備の王家が3世紀に纒向に入っていること・・・これは吉備式埴輪から否定できないわけで、彼らが東海・丹波・出雲・筑紫・四国勢力と共立したのが女王であり、一方南九州の呉とつながっていた狗奴国王がこれと対立し、東征(神武東征に反映)して大和の女王国を打ち倒し新女王臺與を立てて旧女王連合と大同団結し、5世紀までに河内王家が完成したと考えると筋は通る。纒向型古墳である前方後円墳を狗奴国が簒奪して狗奴国王は我が身の正統性に使ったと考えたい。なぜなら狗奴国は親呉国国家だったからだ。ところが魏はあっというまに西晋にとって代わられたわけだから、卑弥呼の親魏倭国王の称号は意味がなくなっているのである。とって代わるのはたやすかっただろう。金印など不要になり加工されたに相違あるまい。親西晋倭王の印が必要になっただろう。

しかも纒向型のサイズを巨大化させることで、前の政権より以上に大きな国ができるという期待感に答えている。前方後円墳が円と台形の合体であることとこれらは矛盾しない。


しかしこの王家は、やがて種切れとなって日本海から後継ぎ大王(つまり種馬)を招聘しなければ立ちいかなくなった。継体大王が登場。これを乗っ取るのが蘇我王権飛鳥である。

蘇我王権は初めて近畿に律令と仏教を導入し、中華に親書を送って海外交易をやろうとした政権である。ところが入鹿時代に、旧勢力だった藤原氏が蘇我氏を追いやった。馬子の功績とずべて奪い、自分たちの手柄にしてしまうのが『日本書紀』に書いてあることである。

いわば狗奴国王権中心だった近畿を、邪馬台国に戻したかったのが蘇我氏、それをまた狗奴国にもどすのが藤原不比等。という見方もできるか?


続きはまたいつか。チコみなきゃ。

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