金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもんてっきょう)
民族学伝承ひろいあげ辞典
東寺ダンワラ古墳出土 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と金錯鉄帯鈎
この鏡にこだわって実物まで見に行ったことがある。
小さな保育園のような場所で公開された。いやこの鏡は長く小学校が保管していたからあれは三芳小学校だったかも。数奇な運命で、鏡は学校から盗まれ、なぜか古物商が考古学の梅原に見せることで梅原六爾が重要視して学会に日の目を見たのだった。
ところが最近、これとそっくりな鉄鏡が、なんと三国志魏の曹操の墳墓から見つかっていたと言うではないか。驚いた。
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 中国・曹操陵の発掘責任者が見解|行政・社会|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE (saga-s.co.jp)
復元版動画
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡復元動画復活! : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
以下のサイト様から画像修正しています。サイト様におかれては、削除要望があればコメントくださいませ。Kawakatu
魏の曹操はもちろん魏の皇帝ではなく宰相ではあるが、そもそも曹操先祖は倭人を知っていたことは先祖の墓に使われた倭人字磚(わじんじせん)=レンガからわかっていた。
倭と委/漢委奴国王は「かんい・なこくおう」が正・イワシは「いやし」が正 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)
曹操、あるいは魏王が、もしや日田市のダンワラ古墳被葬者に分配したとするなら、それはまさに3世紀のことになり、ダンワラ古墳被葬者一族がそれを古墳時代まで維持し、被葬者墓に入れたわけだ。
ならば、この鉄鏡が卑弥呼ももらった可能性が出る。つまりダンワラ古墳のある日田市日高東寺地区こそが邪馬台国だった!!となるかも知れないのだと番組は語っていた。ええ??
残念ながらダンワラ古墳はすでにない。国鉄が久大線を通すときに古墳を削ってしまったのである。なんてこった!!
その場所には何度か行っている。日田市大字日高字東寺通称ダンワラ地区だ。
ちょうど崖の真下に日下部一派であろう刃連(ゆきいのむらじ)の聖地(地図では刃連神社とあるがもう民間信仰の怪しげな祠しかない)があるのだ。地名が刃連町。ここに三芳屋旅館があるが、定宿だ。「ゆき・ゆぎ」とは靫負(ゆげい)の靫 地名になる。靫 とは矢を入れる道具。特に飾り矢用である。それを連はここで作っていたらしい。九州南部異民族との確執を防ぐライン上にある。
ああ、あの刃連を案内したときなぜ駅まで上がらなかったか・・・。
日田市の古墳時代は靫負大伴の配下である、弓矢作り氏族だった弓連が生きた時代で、日下部氏も同時にいた時代である。記紀で言えば熊襲征伐に大伴靫負が派遣されたころ、だんわらの被葬者は日田日高の王だったことになる。それが女性だったかどうか今となってはもう知るすべもない・・・。
重文となったこの鏡には、多くの宝玉や金錯がほどこされていた。こんな立派な鏡はほかに日本では見つからないのだ。唯一、同様のバックルが吉備で見つかっているが比べ物にならないほどこっちが豪華。岡山県榊山古墳出土の青銅製馬形帯鈎
東寺ダンワラ古墳出土金錯鉄帯鈎(きんさくてったいこう)
画像は大分放送出版『大分の古代美術』私家所蔵本から
少なくとも魏と日田の被葬者王には卑弥呼並の近しい関係があったのは間違いあるまい。
やはり日田は天の八十衢だったか?
地名が日高というのもなかなか気になる。「日田」の地名のもとは「ひたか」だったのかも。
すると日下部の往来でできた地名かも知れない。全国の飛騨や日鷹、日高地名もそうかも知れない。
日下部は熊本の草部吉見神社に痕跡があり、日田市刃連神社~丹後の浦島神社へ一直線で向かう。
佐賀新聞によれば、
「潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。」とある。
Wikiダンワラ古墳の解説
「1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が発見された。
発見当時にはこの鉄鏡が注目を集めることはなかったが、1962年(昭和37年)に、梅原末治によってその価値が見いだされ、発見者の渡辺音吉の案内による現地調査が行われた。その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、この古墳は前述の線路工事によって発見時に破壊されていたため、ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。」
なお比多国造があったことは知っているが、ダンワラ被葬者がそうとはわからぬ。むしろ卑弥呼やも知れぬのだ。
しかし奴国や伊都国から近い。日田は筑紫文化圏で豊文化圏とは違う。言葉も博多弁が入り込んでおり、せきじんもあれば装飾古墳もある。いろいろな氏族が係留地にしたことも間違いなかろう。
日田の刃連町は筆者の定宿がある。熊本・福岡の調査拠点が日田市だ。つまり道が四方八方へ広がった盆地。やちまたである。夜須川(小石原川 こいしわらがわ)も通っている。
こりゃあまたダンワラ三芳駅に行かなくちゃ!!
タモリにまた行ってくれるよう頼むか。しかし奴国や伊都国から近い。日田は筑紫文化圏で豊文化圏とは違う。言葉も博多弁が入り込んでおり、せきじんもあれば装飾古墳もある。いろいろな氏族が係留地にしたことも間違いなかろう。
日田の刃連町は筆者の定宿がある。熊本・福岡の調査拠点が日田市だ。つまり道が四方八方へ広がった盆地。やちまたである。夜須川(小石原川 こいしわらがわ)も通っている。
こりゃあまたダンワラ三芳駅に行かなくちゃ!!
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鏡の様式は漢代のものだと以前書いているが、さて?
もっと古いことになる。日下部が九州に来るのも五~六世紀頃のことだろう。
記紀が言う河内王朝仁徳~雄略の直前あたりだ。大伴氏が靫負の長だった時代。
なぜ靫負が九州に来るか?
「日田の日下部氏の下に刃連(ゆきいのむらじ)がいて、豊後国風土記では日田は靫編郷(ゆきあみのさと)と呼ば ... 大伴博麻をはじめとする九州の大伴氏が、在地の熊襲や隼人を傘下に置き、大和で大連となって政治力を 持つ」Google
なるほど?熊襲と隼人・・・。要するに呉と親しくしていただろう狗奴国(自説では奴国の蔑称。倭人伝には奴国は二か所出る。その他の某国として斯波国の次に奴国がある)が見える気がする。人吉市あさぎり町の才園古墳に黄金の神獣鏡があったのも、呉王の贈り物だろう。
ダンワラが三世紀すでにあったとすれば九州の古墳編年が大きく変わる。
ただバックルが吉備榊山にあり、この古墳が5世紀雄略前後の墓と推定されているから、ダンワラもそうなるだろうか?
3~4世紀の曹操とは100年以上くるいが生じるのだ。
むう・・・。
奴国が二度出てくるのは、狗奴国であろうか、それとも狗奴国とは蔑称で、理由は西にある呉と通じたから犬をつけられたか?ならば火葦北国造刑部靫負阿利斯登は、熊襲=狗奴国を制するために送られた?靫負も人吉から日田まで、狗奴国ライン国境にずらりと並んでいる。横穴古墳の靫 のレリーフはそれを証明する。あれは靫負日下部の墓であることになる。
人吉に二か所、熊本に数か所、福岡浮羽、朝倉、日田、宇佐・・・はるかな茨城県にも虎塚がある。
浮羽は「生葉」がもとだが的と書いていくはでもある。
邪馬台国吉備説がいよいよと考えるべきか。
葦北国造も江田船山被葬者火君とすると、どちらも吉備から来たと言われている。理由は阿蘇ピンク石の採集・・・がからむかも知れない。
倭五王がまさか邪馬台国時代の流れを汲んでいる王家?さてさて興味は尽きない。
どっちにせよ女王国の首都は日田か吉備かに近づいたように見えるのだが?いかがでしょうや?
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コメント
コメント一覧 (2)
なお、ダンワラ鉄鏡は10月には大分に一時帰郷(大分県立歴史博物館)しますので、合いに行かれてはどうでしょう。下記に転載します
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開館40周年記念特別展「赤塚古墳と三角縁神獣鏡~宇佐風土記の丘からみた古墳時代~」
・令和3年10月15日(金曜日)~11月28日(日曜日)
本年は、大分県立歴史博物館の前身の歴史民俗資料館が開館して40年、赤塚古墳から三角縁神獣鏡が発見されて100年の節目の年にあたります。そのことを記念して、宇佐風土記の丘にある川部・高森古墳群に焦点をあて、赤塚古墳と三角縁神獣鏡を中心に、古墳時代の大分県の人びとと九州や瀬戸内海、近畿地方とのつながりを示す資料を展示します。あわせて、伝ダンワラ古墳出土鉄鏡など、古墳時代の最新の研究で注目されている資料も紹介します。
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お互い、齢を重ねて来ましたので、お体に気を付けていつまでもお元気で探求ください。
kawakatu
がしました
だんわら古墳は、昔あなたがたと一緒に行った刃連町日下部神社の崖の真上にあったのでして、三芳駅~宿泊先だった刃連町三芳旅館あたりに日下部氏がいたことは間違いないわけです。刃連部は靫の製造集団で皮革を使って作っていた。
kawakatu
がしました
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