おもしろ発見をした。
神社の拝礼の拍手の回数である。

istockphoto-121298436-612x612

画像と記事は関係ありません。この画像は次の記事で使います。


「神社参拝時の作法としては、「二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)」というスタイルが一般的だ。まずは鈴を鳴らしてからお賽銭を入れ、深い礼を2回行う。その後、柏手(拍手)を2回行い、さらに深い礼を1回するという流れだ。しかし、出雲大社や宇佐神宮などでは「二礼四拍手一礼」となる。


 出雲大社の場合、5月14日の例祭では拍手を8回行う。この例祭はもっとも大きな祭典であり、このときに無限という意味がある「8」回の拍手を行うことで神を限りなく讃えることを表すという。通常はこの半分の数を作法としているので、「四拍手」となるわけだ。


 この通常時の二礼四拍手一礼も、正確には「一拝・祈念・二拝・四拍手・一拝」となる。まずは体を90度に曲げた深いお辞儀をし、もう一度深くお辞儀をしてから祈念する。そして、さらに2回、深くお辞儀をしてから拍手を4回行い、最後に深くお辞儀をするという流れだ。


 神社でお願いごとをする際、柏手を打つときなのか、最初と最後、どちらの礼のタイミングで行うのか、悩むことはないだろうか。これも神社によって異なるようだが、出雲大社では拍手よりも先にするとし、拍手は両手を胸の高さに合わせて右手を少し引くのがよいとされる。


 神社の中でも最上格である伊勢神宮ではどうかといえば、「八度拝八開手」という作法がある。これは8回の深い礼の後、拍手を8回するというものだ。しかしこれは、祭祀の際に神職が行うものであり、一般参拝なら二礼二拍手一礼で問題ないようだ。(※筆者が伊勢で教わったのは跪拝して四拍手だったがあれは略式だったか)


 このように神社ごとに異なる作法が見られるが、二礼二拍手一礼が定着したのは明治以降で、古来は「三礼三拍手一礼」だった。


 これは、造化三神とされる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、神皇産霊尊(かんみむすびのみこと)を拝むからという説がある。同じ神道であっても、時代や場所によって作法が異なるので覚えておきたい。」
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6489/



「二拝二拍手一拝の起源には諸説ある。神社新報連載記事「神社いろは」の説によると、二拝二拍手一拝は両段再拝に基づく。両段再拝は二拝を2回行うことであり、拝を4回続けて行う場合もあれば、前のニ拝と後の二拝の間に祝詞奏上や拍手を行う場合もある。拍手は、日本古来の独自の作法として神祇や貴人を敬い拝む場合に用いられた。平安時代以降、宮中では拍手を行わなくなったが、神前では引き続き拍手を行ってきた。その後この両段再拝も神道流派や神社によって多少の違いも生じたが、明治八年神社祭式で規定された「再拝拍手」を基本にして二拝二拍手一拝の参拝方法が慣例化した。以上が「神社いろは」の説である[24]。また、島田 (2019) の説によると、二礼二拍手一礼の起源は明治八年神社祭式に行き着く[25]。これは拝礼の仕方として「再拝拍手」を規定した。ここでいう再拝とは2回続けて深いお辞儀をすることを意味する。2回お辞儀してから拍手を打つやり方は現在の二礼二拍手一礼に通じる、という[26]。以上の両説に云う明治八年神社祭式は、1875年(明治8年)4月13日に太政官式部寮から布達された「神社祭式」である[27]。太政官式部寮は現在の宮内庁式部職にあたる[25]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%A4%BC%E4%BA%8C%E6%8B%8D%E6%89%8B%E4%B8%80%E7%A4%BC#%E4%BA%8C%E6%8B%9D%E4%BA%8C%E6%8B%8D%E6%89%8B%E4%B8%80%E6%8B%9D%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90


要するに神社での拝礼にはさしたる決まりごとはない。
神道そのものにも成文化された教義・教典がないのだから、当然だ。
一般的に戦後から二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝とも)と言われているが、略式だと思っていいし、これも神社により違う。違う神社はちゃんと拝殿前にこうしなさいと書いているから心配ない。とにかく決まりはないのだ。


「神社で行われる参拝作法「再拝二拍手一拝(さいはい・にはくしゅ・いっぱい)」など、3回以下のものは「短拍手・短手(みじかて)」と呼ばれる。出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社の4回[2]、伊勢神宮の8回など、4回以上手を打つものは「長拍手・長手(ながて)」と呼ばれる。他に、8回打った後に再度短拍手を1回打つ「八開手(やひらて)」もある。神葬祭で音を微かに打つ「偲手・忍手・短手(しのびて)」[4]や、直会で盃を受けるときに一回打つ「礼手(らいしゅ)」などもある。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%8D%E6%89%8B_(%E7%A5%9E%E9%81%93)#:~:text=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%A7%E3%82%82%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%81%AE,%E6%89%8B%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82



往古一拝三拍手一拝が流行ったこともあり、あくまでも時の王権によって変化してきた。二礼二拍手一礼は、単に覚えやすいと明治政府が思ったからだろう。儀礼は単純化したほうが国民は迷わない。明治から戦前は、そういう全体主義的に右へ倣えの時代である。現代は、気楽に、行った神社の欲するようにしていればよいのだ。


大人(偉い人)と出会うと「あい」と言って手を打って、腰を落として跪拝したのは『三国志』「魏志倭人伝」の記述である。正しい記録かどうかは知らないが、3世紀頃には、日本人はすでに「はい」と答え、かがんでこうべを垂れていたと見てもあながち間違いはなかろう。


拍手(かしわで)を打つのはこれが最古の記録だから、もっと前から「弥生の渡来人」か「縄文の先住民」がそうやっていたんだろう。記録はあくまで誰かが奇妙に思ったから記録したのであって、いつからかは記録からはわからない。ただ日本の史学者が記録重視するために、それが最古だとなってきただけであり、信じる必要はない。


要するに日本人は弥生時代から人間に向かって「かしわで」を打って、跪拝したのである。それがまんま神社の拝礼になっているだけだということがわかるだろう。


人間に対してやっていた古式の拝礼を、神社信仰が始まった6世紀頃に応用した・・・。そうなろうか。


神社と神道になにも決まりごとが書かれていないのだから、別にそうしなくても文句は言われない。おがまなくても罰はあたらないし、神社に参拝しなくても生きていける。だって宗教はほかにもたくさんあって、彼らが日本の神様から罰が当たるなんかあるわけもない。


信仰というものは、その人の思いの問題で、神社信仰は融通無碍なのだから許されるのは当たり前。許さないとか言い出したのは日本人が戦後暇人がふえたからで、今のコロナのマスク監視、なんたら警察と同じである。これも会社へ行かないから「ひますぎて」、「ゆかい犯」になったからだ。意味がない。強制的なことでもない。どうしようと自由である。ああいのは全部愉快犯だから、警察はそれで捕まえることが可能なんだ。全部とっとと監獄へ。「暇人閑居して災いを成す」まことにことわざはうまいことを言った。


もちろん神社に迷惑をかけたりする行為はしてはならない。神社と言えども他人の敷地であり、神がいようがいまいが、一応そこは往古から聖地なのだから。


出雲大社・宇佐神宮・弥彦神社の四拍手って?
筆者がまだ古代史に入ったころには、四拍手は死拍手だとか、二回で神が出てくるなら四回たたけば帰るんだとか、いろいろ妄想していた。しかし特に意味がなく、ほかと区別したいと言う神社側の都合でしかない。ただ、出雲(大国主)、宇佐(応神)、弥彦(天香山)と、祭神に共通点は見えそうだ。「どれも敗北者の神だ」と。


大国主と敗北物部氏の祖なら記紀にあることそのままの祀り方だが、応神は天皇じゃないか?なぜだと言う人もいることだろう。しかし応神も実は飛鳥欽明王権にとって代わられた大王家であるのは間違いない。応神がいたかどうかは難しいが、母親神功皇后からして海外へのヒエラルキーの産物だから、応神もいたとは思えず、あくまで河内王朝(と言われている)の祖として書かれた作りものだろう。作り物の天皇だから秦氏のような渡来人が記紀に合わせるときに比売神、八幡神に取り換えを許可したんだろう。神功皇后はずっとあとに祀られている。宇佐神宮の神はやはりヒメガミであって、それは宗像の女神つまりアマテラスとスサノヲの娘と記紀ではなっているが、どうだかわかるはずもない。記録はだいたい嘘である。


なお弥彦の神である天香山=あめのかやまとは、別名が天香語山=あめのかごやまとなっていて、要するに物部氏が奈良の飛鳥を牛耳っていた時代があって、父であろう天火明=あめのほあかり=天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)の子供だから、守屋の霊魂を慰める目的で新潟南部(当時は越後ではなく越前国である)に祀ったと考えてよかろう。もちろん守屋がほんとに負けていたか、蘇我氏も殺されたか、知れたもんじゃない。そう思ったら何も言えなくなるが。


『日本書紀』は変なことを書いた。「天孫にもいろいろあるのだ」

こんな変なことはないのだ。天孫が天皇の祖先ならば、二人も天孫系譜はあるわけはない。饒速日は物部氏の祖神だからでは物部氏は天孫で、天皇になれると言うことであるが、だったらそれがなぜ蘇我氏によって滅ぶのか?意味が分からないわけである。ということは、これは天皇権力の取り合いということになり、蘇我氏がカツラギにこだわったのも、その血筋の葛城氏もまた天孫だったと妄想できてしまうのである。じゃあ、いったい天皇家って誰?なのである。苗字がなく、何氏かがわからない。つまり担ぎ出された先住氏族だったと考えるならばだが、天皇は誰でもよいことになってしまいかねない。息長の腹?物的証拠は?父方そのものも記紀系図では、外戚だらけで始まっている。神武?SFである。話はアレクサンダーの加工品。九州?朝鮮でしょう、弥生人は朝鮮から来たんでしょう?稲作も製鉄も仏教も百済からではないか。弥生人は伽耶と百済から来たわけでしょうに?

違う?空から降ってきたの?
天孫がかごに乗って霧島に降りた?あほな。
なんだって?高千穂にはちゃんと天の岩屋戸がある?
全部あとから作ったのだわ。記紀に合わせて、テーマパーク・夢の国を作ったんじゃないか。公共事業ですよ。お寺が修験のテーマパークになってるのと同じことです。


天皇号の使用は今は天武からとなっているが、本当は藤原氏が摂政し始めた持統の時代が最初だと筆者は考えている。ずいぶんむかし、このことは何度も書いたが、誰もピンとこなかったようだったが、今は諸氏いかがか?


ただし、今書いたことのすべては『日本書紀』が書いている歴史があったとしての説でしかない。『日本書紀』が全部うそだったとしたら、飛鳥以前には日本の歴史などまったくわからないのである。


だからこそ、しろうとの推理推測は金にもなる。話題にもなる。藤原不比等の大嘘のおかげで筆者やみなさんは記事が書けるのである。これが「続日本紀」のような嘘があまりない史書だとそういう楽しみの余地がない。そういったのは松本清張。黒岩も松本もおもろい小説や疑義で金儲けができなかったはずだ。


推理推測が絶対だめだとは思わない。できるだけ史学以外の証拠をそろえて言えば納得できることもある。そういう中で、神社伝承とか神話とか地元の言い伝えなんてものは創られたものがほとんどだから筆者は眉唾で聞いて来た。「へえ、そうだったんですか!」と言いながら心では「うそばっかし」と思っているのである。つまり地元神社への郷土愛、とか誇り?そういうもので出来上がった自慢話だからだ。主観的なのである。そして政治的、恣意的だ。愛すれば敗北者でも正義になる。明智光秀の岐阜などそうでしょ?それが人間なのです。信じられるものじゃない。だからKawakatuは嫌われ者なのであり、それを覚悟して書いている。


友人や仲間は、真実の前には、邪魔になる。
孤高じゃないと束縛される。自由に書けなくなる。

だからひとりで生きることを選んだ。

(だれかが死ぬたびに金がかかるしね)

嫌いになっても、もともとひとり。友人はいない、家族もない、女房もいない、兄弟とも絶縁。
こうこまでやってからモノをかけだよ。尋常じゃないんです、書くって自由は。いや自由とは捨てさることかもね。





にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング


民俗学ランキング