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国譲りで負けたタケミナカタが諏訪まで行ったルートは、たぶん、信濃川から入ったのではと思える。
だから越前に弥彦神社とか、行き過ぎて秋田に唐松神があるのかと。なぜ物部氏の残党と海人族タケミナカタが関係するか?わかりません。

なぜ富山の姫川からじゃないか知らない。アルプスが邪魔するからだろうねえ。しかし往古、あそこにも道があったと考えられるし、北関東へも行けたはず。妻籠や馬込の中山道は江戸時代だが、もともと基礎としての古道があったんじゃないか?なぜってそこは風の道で、日本海から強風が吹くから、炭焼きや製鉄にはよい道だった。今でもニュースで強風がここを吹き抜ける事故がよく報道される。

信濃川を選んだのは、結果的にそれが一番川幅も広く、長いからだろうか。結果的に諏訪湖まで行けた。しかし姫川からだと、きっと松本安曇野に行っただろう。その松本には穂高神社があって、ここには同じ海人族の阿曇氏や九州熊本の多氏がいた。それを避けたとするとタケミナカタは海人族阿曇じゃなく、やはり蘇我氏となる?いや安曇の棲み分けかも。

出雲神話では、タケミナカタ以外に事代主という釣りが好きな神がいた。あれは何氏だろう?妄想すればだが、葛城氏・鴨氏。奈良と大阪にまたがる金剛葛城山麓に葛城氏はいて、賀茂坐八重事代主神社とかかもつば神社もあり、鴨氏=葛城氏となろうか。そこにあとから秦氏が入って婚姻混血して、田辺木津川経由で京都の賀茂神社二社ができあがるようだ。松尾はそこからの分家か、秦下氏らの別れたものだろう。ここが面白いのは祭神がなぜか大山積という謎。なんで四国水軍の山の神か?秦氏は半島から河野氏の船で来たか?

神社と言うのは複雑怪奇である。

まあ、意外な神が祭られるのは氏族間結婚のためであるのは間違いなかろう。


さて、この連中をまとめて好事家たちはカツラギ族と呼んで出雲敗北氏族ととらえているらしい。かつらぎじゃなくてカヅラキが正しい読み方だが言いにくし。

その葛城氏は、記紀では天皇の最初の外戚で、祖は武内宿禰で祖神がだいたいスサノオ。紀氏も巨勢氏も蘇我氏もここに入る。しかしまあ、襲津彦が祖でよかろうか。



神社信仰というのは中臣氏と秦氏、鴨氏たが作り上げていったに相違なく、歴史はそんなに古くないだろう。神代からあったものではなく、だいたい大物主なんぞのほうがあちこちに先住していて、藤原氏時代になって社ができあがると見ている。その前は原始信仰の山や水の神で、自然崇拝であろう。先住民が祭る祠を社にして国家信仰(『日本書紀』の作ったもの)のが神社であろう。

だからそもそもはラインとか関係ない場所だったかもね。

いや、縄文世界の先住民にライン嗜好があったことも否定できないが。

年代的には欽明政権の520 年あたりじゃないか。神社形態の始まりは。すると蘇我氏かな?


とにかく記紀以前の開始は考えにくい。神社・神道は記紀神話を主として、あとから道教・仏教が影響する。


つまり神社という器はあとづけである。筆者がそう考えているだけですよ。


あともうひとり、少彦名がいましたね。これはどこのどなたの神様?
「すくなひこな」だから小さい民族なんだろうかねえ?そして酒と薬でしょう?のちの薬師さんに祀られてます。粟島信仰も生んでいる。小人でしょうか?コロボックルみたいな?
いや、小さいヒトと言うとまず原始信仰では「七人の小人」のように鉱山師でしょうな。国土開百=鉱山開発だったとね。だって鉱山=金属=武器・薬じゃあないですか。


じゃあなぜ全員出雲からいなくなった?
出雲が良港だから、侵略されやすいからでしょうね。半島に向いていて、日本海交易の要になる地形と立地。だから何代も何代も為政者が代わったはずなんだね。

筑紫も伽耶も百済も新羅も、大和もみんな欲しいのが出雲。船の時代ですからね。


しかも宍道湖がある。あそこは潟湖で、うまいもんが多いんだよねえ。

風から船を守るには潟湖。これは故森浩一先生のいつも言っていたことである。

秋田なら八郎潟、新潟なら弥彦、但馬の東条湖、リアス式の若狭湾、福岡の多島海玄界灘・那珂川、伊勢志摩、三陸、富山湾、舞鶴港、小浜軍港・・・星の数ほどいい港はあるけれど、出雲は半島交易で一番。渡来人だらけだったでしょうなあ。

筆者の経験では舞鶴漁港にはロシアと北朝鮮の漁師が山ほど歩いていた。大分にも来ていた。今は来ないよ。北はね。でもロシアは来る、カニもって来る。それうまい。安い、鮮度もよし。うまかったねえ。みそが鮮烈な若草色ですわ。臭いなんかゼロ。甘い。深い。これはもう志向の味覚である。

ああ腹が減った。
井の頭みたいに茫然自失だ。ほなまた。

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