●わずか12時間で終わった武寧王陵発掘
「--1971年百済第25代武寧(ムリョン)王の墓が約1500年ぶりに発掘されてからちょうど半世紀が流れた。「韓国考古・歴史学を変えた記念碑的事件」「繰り返されてはいけない失敗の鏡」として、同時に照明が当てられた武寧王陵発掘を通じて、文化財発掘および保存科学50年史を3回にかわたって振り返る。--」
 

●短すぎた発掘の謎
 「武寧王陵の発掘には光と闇が共存する。
墓内部の遺物撮影から最終収拾までわずか12時間しかかからなかった「超高速発掘」のためだ。
当時ですら、自分たちの力だけで大規模古墳発掘をしたことなかったうえ、「盗掘されなかった百済王陵」という大事件の前にメディアや世論はもちろん、発掘団も冷静さを保てなかった。「掃き持ち帰った」という表現がしっくりくるほどの速度戦だった。このため、注意深く発掘していれば逃さなかっただろう数多くの古代史の糸口がそのまま失われた。50年経った今でも武寧王陵が「反面教師」の代表事例に挙げられる理由だ。


(中略)


チェ・ビョンヒョン名誉教授は
「当時の性急で不十分な遺物保存処理に対する反省から、その後保存科学に対する関心と投資が増えることになった」
「反省は反省としつつも、新たな観点からの探求によって、さらに多くの『古代史の秘密』を明らかにしなければならない時だ」
と話した。
国宝だけで17点「百済ブラックボックス」…12時間の超拙速発掘だった武寧王陵=韓国(中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


このように過去の韓国の考古学の発掘はおざなりなもので、それだけに再調査を望みたい。
武寧王は倭国の継体大王との友人関係があり、生まれたのも日本の九州の島(そのために武寧は「しまおう」の別称がある)。倭国と百済の、当時の蜜月関係や継体大王の出自、さらに武寧王自身の出自、そして当時の両国の歴史的な東アジアにおける立場などなど、まだまだ王墓には、見つかっていない資料が山ほどあるのではないか?

武寧王陵からは、その時に17点の貴重な遺品が持ち出されたとあるが、日本の古墳の埋蔵物に比して、なにか少ない気がしていたものだ。

その国宝クラスの遺品・遺物の画像はすでにこのブログで過去添付・啓上してある。
記事ごともう一度掲載しておこう。江田船山古墳出土品との比較(あまりにも類似!)にしてある。




武寧の靴と无利弖の靴・百済と日本 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)

3757fd7d.jpg



faf884b4.jpg


481917d2.jpg



江田・武寧陵墳墓遺物の比較によると金冠、靴履、耳飾り、神獣鏡などにあまりにも類似があるということであるようだ。

画像上から順に
王冠・左、武寧王陵、右、江田船山
武寧王耳飾り
江田船山耳飾り
武寧王靴履
江田船山靴履
復元された靴履
武寧王冠復元予想
武寧の王冠飾り

考古学者の多くは、当時の両国遺物に類似があるのは既成の事実であるようだが、一般的にはほとんど知らされていない。そもそも江田船山古墳発掘時に、東京国立博物館が全品国宝指定して回収してしまったことが疑いを生んだ原因だったようだ。

主として武寧王陵と江田船山古墳の遺物を画像によって比較する。さまざまな切り口がそこに見え隠れしているようである。



藤ノ木古墳出土金冠と靴履など
http://avantdoublier.blogspot.com/2007_12_01_archive.html



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「一つの古墳(特に未盗掘のもの)から発掘される副葬品は数(点数)が多く、勾玉や土器、鉄族、その他小さなものまでいれると数百点になる。宮地岳古墳(福岡県福津市)は約300点、江田船山古墳で約200点である。ところが、宮地岳古墳の約300点のうち国宝指定は数点だが江田船山古墳の場合、東京国立博物館に買い取られた92点すべてが“一括国宝指定”されている。考古学の世界ではあまり価値の無いような小さな破片まで一括国宝指定するという異常な決定が何を根拠にしてなされたのか。「世界文化の見地から価値の高いもの」で「たぐいない国民の宝」たるもの…という趣旨からすると、“特別扱い”そのものである。“特別扱い”するからには何か“特別の理由”があるはず… …。」
http://members.jcom.home.ne.jp/sachiyama2/page015.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「江田船山古墳鉄剣銘の秘密 被葬者は百済王の王子だった!! 古代史発掘」江口素里奈/著
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31936816

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「王の耳飾と対比できるものとして,同じく南韓出土と伝えられる耳飾(第6図)や日本熊本県船山古墳出土の耳飾(第5図)が挙げられるであろう。」〔伊藤秋男1975:206〕

「周知のように、この耳飾(江田船山古墳の無鎖式耳飾-引用者)と、武寧王陵(32)出土の王の耳飾とは大変よく似ていて、ほぼ同時期に製作されたものであることは間違いない。」〔岡安光彦ほか1986:111〕

「熊本県江田船山古墳出土例(2)は、六世紀初頭の追葬時のものと考えられるが、ほぼ同時期の、百済の武寧王の耳飾と近似している。」〔神賀朋子1997:25〕
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0072.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「556年 筑紫火君は百済王子の帰国に際して、勇士1000人で津路を護衛。 」
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/kumamotohistory.htm

「欽明天皇 元年〔540〕8月、高麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
  余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。

  16年〔555〕2月、百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。

  17年〔556〕正月、百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。」
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/mater8.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「肥前風土記・釈紀所引肥後風土記:崇神朝(景行天皇説もある)勅により肥後国益城郡朝来名の峰の土蜘蛛を誅滅。この功により火君建緒組の姓名を賜った。」
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-31.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「更に「古鏡」によりますと、この獣帯鏡は半肉彫獣帯鏡と呼ばれ、同類の鏡が特に九州地方での出土が多く報告されています。興味あることに武寧王陵・観音山古墳・甲山(三上山下)古墳のものと酷似した鏡が熊本県の江田船山古墳からも出土していることです。船山古墳は全長約61mの前方後円墳で、古墳の所在する地域は肥後国葦北郡に比定されますが、ここを治めていたのが火葦北国造刑部阿利斯登で、大伴金村によって朝鮮半島に派遣された人物です。そしてその子日羅は百済の官位を持ち、大伴金村を「我君」と呼ぶくらいに大伴氏と関係が深く、そして百済にも仕えていたことは極めて興味深いものがあります。先の論文では、この古墳から出土した金銅製飾履は武寧陵出土のものから強い影響を受けていることが触れられていました。船山古墳の年代は5世紀後半から6世紀初頭、甲山古墳の一世代前、隣接する円山古墳と同時代に当たります。葦北郡は、甲山、円山古墳に採用されていた阿蘇ピンク石家形石棺の石材の産出地にも近く、これらの石材を採用した背景には、こうした獣帯鏡の分有関係と関連しているのかも知れません。」
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/kokou1sannkaku.htm


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「東京国立博物館で、熊本県江田船山古墳出土の金銅製沓(くつ。飾履〔=しょくり〕とも言う。また飾履は、「かざりぐつ」と読むこともある)をしげしげと見て、直感的に「これは作れるかもしれない!」と思ったのが、取り組もうと思った単純なきっかけです。日本史図表などには、藤ノ木古墳出土飾履の複製品がよく掲載されています。かつては、ずいぶんハデでしかも歩きにくい沓を履いていたんだなあ、などと考えていましたが、これは基本的には葬送用のもの(謁見などに用いられる場合もあったようです)で、仰向けに横たえた遺体に履かせるものだと後で知りました。ですから、よく見える沓底にも飾りがついています。表面を飾る亀甲紋(きっこうもん)や歩揺(ほよう。フックにかけて揺らすように工夫された飾り物)、沓底のスパイク状の突起物などにもそれぞれ意味があることを学びました。また、この飾履は朝鮮半島に源流をもち、日本ではまだ19個しか出土しておらず、しかも全形をとどめるのがわずか5、6例しかないとのことです。」
http://homepage3.nifty.com/basaranihonshi/basara25shokuri.htm


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


倭王 武 = 日本武尊 = 日十大王 = 斯麻 = 武寧王 | 伝統
「時間が無いので一点だけに絞りますが′獲加多支鹵大王は雄略天皇で間違いはありません。何故ならにはsiki宮と刻まれていますが′これは日本書紀に記載されている雄略天皇が住んでいた宮と全く同じです。これだけでも獲加多支鹵大王は雄略天皇である決定的なと言えるでしょう。ちなみに獲加多支鹵大王が雄略天皇の根として′雄略天皇の名が「wakatakeru」だというだけでは根が無いとおっしゃっていますが′古代日本の場合大王の名は全て名前で表記していました。つまり雄略天皇はまさに「wakatakeru大王」でした。住んでいる宮も一致′時代も一致′名前も一致で′減点法から見ても獲加多支鹵大王は雄略天皇である事は間違いありません。」
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=64915


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「古墳築造年代の基準に出来るのは520年代築造の百済武寧王墓で、 江田船山古墳は武寧王墓より、時代が新しく、埼玉稲荷山古墳は、江田船山古墳より 多少古い。

井上秀雄氏の金石研究によると、草冠無しの「獲」の字の使用は、 中国金石では、東魏536年墓誌が初見で、朝鮮では568年新羅碑文が初見とのことです。 即ち、「6世紀前半の始めの頃=525年以前」は成り立たないのです。」
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/ka-b-inani.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






●現在のKawakatuのコメント
武寧王陵と江田船山古墳と稲荷山古墳から百済王と日本の相関関係が見えそうな気配である。
なお藤ノ木古墳は新羅の遺物も多いようだ。
2008年12月11日 19:29つい考ええてしまうのは、ほかにもっと倭国に有利となるような遺物はなかったか、である。もしやとは思うが隠匿の意図でそうそうに発掘を切り上げた?確かに50年前では日本も発掘はまだまだだった時代なので、戦後間もなかった韓国の事情や予算は理解できるので、まさかとは思うが。今の韓国を見ているとない話でもない気になってしまう。




互いの過去の歴史を正確に把握しあうために、再発掘をおおいに願うものである。正確な発掘は、しろうとの妄想の入る余地を埋めてくれる。われわれの勝手な恣意的な、現代政治に感化されてしまったような妄想・空想を、否定する資料の出土を待つ。





空想はただの小説でしかない。

よほどの核心と証拠がなければ、ここの過去記事もすべて筆者自身が妄想、仮説であるとしたい。



もちろん邪馬台国が九州から纒向へ動いたという証拠も、自分にはそれが今の結論としておくつもりなど全くない。(今のところ邪馬台国は東へ移動したと言うしかないことには、「今は」自信があるが・・・それも発掘次第で変わるだろう)