民族学伝承ひろいあげ辞典

文献・科学・考古学・遺伝子学・環境学・言語学・人類学・民俗学・民族学 あらゆるヒントを総合し、最新用語を解説、独自に解釈してわかりやすく説明します。 誰も書かない、目から鱗、鼻から牛乳、目から火花、頭の先からぴかっと電球

真赤な彼岸花が稲穂のあぜに満開でした。我が家では白いリコリスが満開。
昨夜の名月、光る雲の中から一瞬顔を出しました。ちょうどベランダに出たときで、ぱちりできましたよ。
そんな記事をKawakatuワールドブログに書いています。中秋の記事です。メニューバーからどうぞ。


旧企求(きく)郡北九州市
和布刈神社
荒神森古墳(小倉南区)
円光寺古墳(小倉南区)
丸山古墳(小倉南区)
上ん山古墳(小倉南区)
茶毘志山古墳(小倉南区)
御座古墳群(小倉南区)
日明一本松塚古墳(小倉北区)

京都郡豊津町
豊前国分寺三重塔
彦徳甲塚古墳
川の上遺跡
豊前国府跡公園

京都郡犀川町
御所ケ谷神篭石

京都郡勝山町
橘塚古墳 綾塚古墳 扇八幡古墳 菩提廃寺 求菩提山護国寺

京都郡行橋市
御所ヶ谷 条善寺 今井祇園 椿市廃寺 平尾台 ビワノクマ古墳 蓑島  草場村

京都郡苅田町
石塚山古墳 番塚古墳 御所山古墳 青竜窟 松山城跡 内尾薬師 白石海岸 神ノ島

田川郡赤村
田川郡香春町 鏡山古墳(勾金陵参考地) 牛斬山銅山間歩 採銅所跡 香春岳 長光家鍛冶
田川郡田川市
築上郡豊前市
築上郡築城(ついき)町
築上郡築上町
築上郡椎田町綱敷天満宮 小原岩陰遺跡 鬼塚 石堂古墳群
築上郡吉富町八幡古表神社蔵 女神騎牛像 傀儡子 細男舞 神相撲 天仲寺古墳 楡生山古墳
築上郡新吉富町(現上毛町)福岡県築上郡新吉富村大字安雲歴史民俗資料館 山田古墳 矢方池 八坂神社 宇野古墳 吉岡古墳 
築上郡大平村(現上毛町)穴ケ葉山古墳 友枝瓦窯跡 大池公園 百留横穴古墳群

●列記してあるのは、旧豊前国仲津郡丁里・上毛郡塔里・加自久也里が含まれる旧豊前国とその周辺地域の史跡・古墳である。
これに『正倉院文書』の記録を考え合わせて上の推定図となった。


「正倉院文書」大宝2年(702)残簡戸籍(最古)
■仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)
秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
■上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=今の上毛町東部山国川沿岸地域及び対岸の中津市上ノ原地域)
秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。
■上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)
秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。完全なる戸籍記録として最古)

丁、勝、塔、黒田、高屋、大屋、門、田部、梢、調、など「勝」が付く人名は秦勝首クラスの一家であろうから秦系列の中に数えれば渡来氏名のうちの大半が秦の民であったことが断定できる。その他の氏姓ははっきり言って極めて弱小な割合でしかない。これまでは地元教育関係・歴史学・考古学関係の正倉院文書解釈は「豊前国に多かった渡来氏姓」という抽象的物言いであったが、これではっきりとその渡来の民が秦氏眷属であったと言うべきである。特に各遺跡や古墳の解説書、学校での授業でははっきりと「秦氏である」と名言するべきである。なにをためらうのか?

口ごもるな。
これらの地域にいて、民衆と国衙の間をとりもっていた存在こそが秦首ではないか。
少なくとも「勝」がつく秦氏眷属の子孫は今でもその姓を名乗っているに違いない。
明治時代でも秦氏出身を謳う高級官僚は多かったのである。
明治時代まで、秦氏という氏姓は、貴族間では胸を張っていい氏姓だったということである。
何を萎縮する必要があろうか?
記録に残っているということがどれだけ誇るべきことかよく考えてもらいたい。

当時の戸籍では、おとなりの筑前国には秦系氏姓が一切出現しないことを言い添えておく。
北九州市は当時東半分は豊前国であった。
また田川郡の東部も豊前国に含まれていたようである。
こうしたことから香春岳銅鉱山開発を中心とした仲津郡丁里の秦の民は居住地を、中央への運送に最寄の豊前東部周防灘から銅などの産物を海部たちの船で出荷したと思われ、当然、その居住地は筑前には及ばず、赤村から行橋へ向かう鉱山道沿いに住まったと考えていいだろう。鉱山付近には技術者である部民たちが常駐したのだろう。ただし、田川から6メートルの直線の官道が出土して、香春古道として豊前を経て宇佐神宮までつながっていたことがわかっている。その道は宇佐ではちょうど参道になっており、弥勒寺跡のある神宮境内の呉橋へと向かっていることもわかっている。つまりこの官道は宇佐勅使道であり、それは産業道路ではなかったということになるだろう。


・・・・・


山城国が本拠地のはずの秦氏が、なぜ九州豊前~豊後に多いかは、説明するまでもないが、首長一族が大和から山背まで行った伝承を持つに反して、豊前秦氏には奈良時代になってようやく戸籍が残されたわけである。つまり豊前秦氏の存在は伝承ではない。山背本家の存在には伝承以上のものはなにもないと言える。ただ遺物だけが山ほど残っている。神社や遺跡だ。しかし豊前には地名しか残っていない。

勘案すれば、山背が王族渡来人、豊前その他の地方の秦氏たちは、ノット王族。つまり家臣団~下働きの下層民までだと考えうる。言い換えると大和や山背は氏、上人であり、その他全国に散らばる秦の民は、階級で言えば人、部、民であり、下人であり、ブルーカラーの技術者たちであろうと推定できる。

奈良時代以前の階層にはこれという規定はまだないが、のちの氏かばね制度では~氏、~人、~部の民という呼称はあっただろう。それら全体が秦の一族である。「はた」の一族は

1 朝鮮半島南部から4世紀頃渡来した一族
2 その途中で加わった同族・すけっと、海の民など
3 婚姻で同族化した外戚氏族とその民全部(葛城、鴨、蘇我、藤原などの有力者や有象無象)
4 あとから必要上秦氏が取り込んでいった先住氏族たち


このようにして巨大化した氏族ゆえに「はた」=朝鮮語表記で巨。
さらにわが国平民の間では、渡来の民すべてを「はたびと」と総称していた可能性がある。
従がって秦氏と言う呼称に組み込まれたからと言ってすべてが秦の血脈だったわけではない、集団の名称だと考えねばならない。秦さんがもとから秦民だったかどうか、その一家が自分で調べて観なければわからない。貴族だったか、平民だったか、下層民だったかなど調べねばなにもわからない。特に地方の「はた」「はだ」「しん」さんたちはそういうことである。佐藤・後藤ほど山ほどいるのだから。どこの馬の骨かなど知れたものではないのだから。自分が調べるしかない。

もちろん改姓が多かった一族。はたでなくても、あなただってはただった可能性はないとも言い切れまい。地名を名乗ったりは数多い。


とにかく藤原とか源氏・平氏・橘など反映した一族の現代の呼び名・佐藤とか加藤なんかも同じことだ。おそらくたいがいは平民、百姓である。あるいは浅ましき民とされた人たちもいたことだろう。すべての氏族がそうなのだ。武家でもやはりそういうものだ。

徳川もそうだ。
家康の父親は中部地方を放浪する阿弥だった。それが子供がいない尾張の松平家に気に入られ養子になった。織田家も福井から放浪してきた馬の骨だった。武家のほとんどが食い詰めた馬の骨出身者ばかりである。地回りのやくざと大差はない。源平藤橘などあとから勝手に名乗った。ただの人殺し集団でしかない。戦国時代以後の足軽、下士と言うのも実は百姓より下層の人々だったと考えられる。当家も武家ではあるが、調べ上げていった結果、そう結論してよいと気づいた。自分には当家の祖先を特に話を膨らませて立派な権威ある武家だったなどと力説するつもりはない。むしろ大友家などよそからきた守護職でしかないのだ。地元の武士だと思うほうが奇妙である。守護などは中央から任命されてくる。全国でそうなのだ。もともとよそ者だ。これは古代国造も同じことである。よそ者である。歴史をやるのなら、まずそういう主観的勘違いを消してから掛からねば意味はない。地元至上主義からはじまったらただの郷土史家にしかならない。それは歴史家ではないと思うべきである。


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