民族学伝承ひろいあげ辞典

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秋の味覚ぎんなんです。
今年は豊作だそうな。

台風が通過中ですが、まったく風もなく、姿が見えません。

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秦王国の考古学 : 民族学伝承ひろいあげ辞典 (blog.jp)


正倉院文書・豊前戸籍記録の秦氏

「正倉院文書」大宝2年(702)残簡戸籍(最古)
■仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)
秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
■上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=旧上毛町あたり)
秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。
■上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)
秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。完全なる戸籍記録として最古)

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注意;勝=かつ とは漢氏(あや・うじ)配下の族長=すぐり(村主)に対する秦氏の族長の呼称である。
秦氏の勝を「すぐり」と読むのはあきらかに過去の分析の過ちであろう。したがって「勝」のつく地名は秦氏配下のいた場所という可能性がかなり高い。
上毛郡は「こうげぐん」と読む。かつての「かみつみけ」である。南部を下毛郡(しもげぐん)といい、今の三光村から耶馬溪周辺である。
「みけ」とは神の食事=神饌の意味である。
秦氏が山背(山城)国で稲荷(いなり)=豊受(とゆけ)=伊勢の神の食事の神(=斎宮)を祭ることと合致している。従って豊受には豊前・豊の国の意味が含まれていたとも考え及ぶ。

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「友枝(ともえだ)川の東岸に面した、上毛町下唐原(しもとうばる)と土佐井(つっさい)にまたがる丘陵では、平成11年に神籠石(こうごういし)の列石や水門が発見され、唐原神籠石と名付けられました。列石、土塁などを繋いだ総延長は1.2キロメートルほどで、神籠石としては小規模なほうです。内部の施設などは未発見ですが、最高所からは、椎田から宇佐あたりの海岸部が望め、遠く対岸の周防国側の山並みや、背後の上毛郡(こうげぐん)、下毛郡(しもげぐん)の平野部一帯が見渡せます。おそらく朝鮮半島での緊張に関連して、筑紫の朝倉広庭宮に進出した(661年)斎明天皇(さいめいてんのう)の避難ルートを確保するためにも、山国川河口近くに設ける必然性があって、これを支える集団も居ただろうと考えられます。

上毛町垂水廃寺は、7世紀末頃に創建された古代寺院で、伽藍配置などは未だ分かっていませんが、帰化系氏族が建立したと考えられ、6~7世紀に須恵器や瓦を焼いていた上毛町山田窯跡や国指定史跡の上毛町友枝窯跡などで焼かれた新羅系瓦が大半ながら、一部百済系の瓦も使用されています。

正倉院に残る大宝2年(702年)の
■残簡戸籍(ざんかんこせき)「豊前國上毛郡塔里(とうり)」は、後の「和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)」記載の「多布(とう)」とみられる上毛町唐原付近に、「加自久也里」は「炊江郷(かしきえのごう)」とみられる豊前市大村周辺に想定■
されますが、渡来系の姓が多いとされています。「和名類聚抄」には、「加牟豆美介(かむつみけ)」という記述があって、上身郷もみられます。この上(止もしくは土の誤字とする説がある)身は吉富周辺の可能性が高いといえます。また、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱(740年)に関係する「登美鎮」は軍事施設らしく、海路と河川沿いの交通の要衝であった吉富町などを含む山国側下流域に登美鎮(とみちん)があったとする説もあります。

律令体制では、豊津町に国府、国分寺が設置され、上毛郡では上毛町大ノ瀬官衙(だいのせかんが)遺跡に郡衙(ぐんが)が設置されていたようです。郡衙設置にも当時の豪族が大きく関与していたであろうし、垂水廃寺を建立した豪族であった可能性は高いと考えられます。中津市長者屋敷遺跡に設置された下毛郡衙と中津市相原廃寺(あいはらはいじ)の関係も然(しか)りです。

大宰府と国府を繋ぐ官道(駅路)のうち、豊前豊後ルートは豊津町の豊前国府から築上町越路(こいじ)、福間、豊前市松江(しょうえ)、荒堀、上毛郡衙、垂水廃寺、下毛郡衙、勅使道を経て、宇佐に向かうコースの幅6メートル規模の直線道路であったことが、各地での発掘調査で発見された路床面(ろしょうめん)や側溝を繋いで復元が可能になっています。現在の地割に名残をを残す条里区割りも、官道を基準にしていたようです。」http://www.town.yoshitomi.lg.jp/p/1/9/2/27/2/11/


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こうした記録と6世紀末の遺跡・古墳群の発掘から、豊前に秦氏が最初に入ったことは間違いなく、それは少なくとも6世紀までにあったことがわかる。山背秦氏の記録が秦河勝・聖徳太子の6世紀であるから、雄略・継体朝の4、5世紀までにすでに豊前に定着していた豊前秦氏が瀬戸内海から山口県や高知県へと移動し、さらに東へ移動したことが推測でき、山口県の銅鉱山開発や高知県の幡多郡が存在することと合致する。豊前の旧唐原(とうばる)の「唐」表記は、宇佐神宮巫者であった辛嶋勝(からしま・かつ)氏が秦氏眷属であることから、「から」=新羅系加耶出身を意味していると考えられ、唐原(とうばる)がある今の大平村周辺と山国川対岸一帯の中津市がかつての塔里(とうのさと・とうり。里を「り」と読むのは半島の読み方である)であったことはほぼ間違いあるまい。とすると上唐原地区の穴ヶ葉古墳は秦氏秦首系管理者の古墳、山国川河畔の下唐原地区の百留(ひゃくどめ)横穴墓穴郡はその配下にあった秦部のものと考えられる。

百留横穴が筑後川系統の朱塗りの円紋を持つのは、それらの古墳を作った人々が有明海沿岸と同じく海部系海人族だったからであると推定でき、秦氏が東九州で海部系海人の一部を傘下に置いていたことが考えられる。記録にも海部1戸とある。また川辺は今でも宇佐駅館川沿岸の地名であり、そこには宇佐風土記の丘内に免が平、赤塚などの大古墳群があって宇佐神宮に関わった辛嶋氏あるいは大神氏の墳墓ではないかと考えられているから、辛嶋氏とともに大神氏も秦氏と関わっていたことが想定できる。

なお豊前、特に大平村は人口ため池が非常に多く、灌漑土木を得意とした秦一族の面目躍如だと見える。このほか中津市伊藤田には古要神社がありクグツ芝居と城山横穴古墳群を持つ。

さらに豊前秦氏が田川郡香春や山口県で東大寺大仏の銅を産出していたことから、秦氏が塩田や辰砂や土木開発とともに銅産出氏族であることは充分推定でき、豊前国一帯に広がる同系統の横穴古墳群の人々が、秦首の指示で豊前国各地に飛んで銅を始めとする鉱脈開発にたづさわった秦部一族であったことは推測可能となる。

古代の鉱山開発者たちは居住地を鉱山からやや距離の離れた地域に作ることがわかっている。それは鉱毒を畏れたからであろう。ゆえに麻生金山などの鉱床を遠巻きにして取り囲む横穴墓群の点在は、麻生周辺にいくつかの鉱脈が存在していたことを考えさせる。麻生に至る沿道に辛嶋氏の神社、地名が残るのも、またその道をゆけばやがて耶馬溪(やばけい)へと行き着くことも、彼等が鉱脈探訪していった痕跡であると考えうることになる。

なお穴ヶ葉1号墳の線刻壁画は、国東伊美の鬼塚古墳のものに似ていることも付記しておく。
線刻壁画古墳は東北や大阪を含む広範囲に広がっており、その拡大には海人族=エビス系が関与していると思われる。海部と秦氏の深い関わりが感じられる。
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