民族学伝承ひろいあげ辞典

文献・科学・考古学・遺伝子学・環境学・言語学・人類学・民俗学・民族学 あらゆるヒントを総合し、最新用語を解説、独自に解釈してわかりやすく説明します。 誰も書かない、目から鱗、鼻から牛乳、目から火花、頭の先からぴかっと電球

秋の味覚ぎんなんです。
今年は豊作だそうな。

台風が通過中ですが、まったく風もなく、姿が見えません。

 
 
60年代の島根新聞に島根県知事の年賀が掲載された、その横に、出雲大社第83代国造千家尊祀(せんげ・たかとし)の年賀が並んでいたことを見て、司馬遼太郎。
 
司馬遼太郎『先祖ばなし』所収「出雲のふしぎ」
 
「十数世紀前の古代国家における出雲の王が、二十世紀の公選知事と肩を並べて県民に挨拶をしている」
 
 
 
 
2004年秋の園遊会で東京都教育委員・米長邦雄、天皇にお答えして、
 
「日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事であります」
 
明仁天皇、それに答えていわく
 
「強制は望ましくない」
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
あらひとがみには二柱がある。
ひとつは天孫の子孫、ひとつは国津神・オオクニヌシの子孫である。後者を特に「現津神」という。前者を特に「現人神」という。
どちらも「あらひとがみ」だ。
 
 
国津神の大王であるオオクニヌシの子孫とは、出雲ホヒの神の末裔である出雲国造、千家氏のことである。
 
 
 
司馬遼太郎ですら、千家氏の記紀における、天孫によって国を譲り、結果的に、日本国のいまひとつの「国土のあらひとがみ」となった出雲国造家の歴史的意義を認識できていなかった。
 
 
 
 
岡本雅亨 『民族の創出 まつろわぬ人々、隠された多様性』2014より

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2014/9/30(火) 午後 7:31
  

90万アクセス感謝記事
 

 
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二人の「あきつかみ」の子孫
明治時代の肖像
 
あなたはどちらがカッコいいと思いますか?

 
左、第百二十二代明治天皇・睦仁(むつひと)
右、第八十代出雲国造・千家尊福(せんげ・たかとみ)
 
 
 
まず相貌からは、外国人が見たら、右が大王だと見えるのではなかろうか。
恰幅、骨格、幅の広い顔。王者の風貌である。
 
しかしこれは明らかに縄文系の特色を強く持った「まつろわぬ者」の顔でもある。
熊襲・蝦夷の顔、アイヌ・西洋人の貌だと言ったほうがわかりやすいか。
 
 
 

 

晩年の尊福
 

 
 
一方、明治天皇・睦仁の相貌は細面で、渡来系のように見える。弥生人の骨格である。以前武家の顔写真を貼ったが、よく似ている。面長で、ひらべったい。
 
おせじにも威風堂々とした相貌、体躯とはいいがたく、14歳ころの明治天皇に逢って会話した英国公使パークスの記録では「ミカドは恥ずかしがりやで」「おずおずしており」「(暗記したはずの)自分の述べる言葉が思い出せず」「左手の役人から聞いてどうにか思い出し、最初の一節をどうにかこうにか発音し」「結局、全文は役人が読み上げた」とある。
 
 

 
この頼りなく、細いからだの、なよなよして、女官たちに眉を公家風に描き化粧してもらっていた少年天皇を、明治政府は国家元首、軍隊の元帥へとどんどん教育していった。その結果、明治天皇の相貌は変わっていく・・・と、岡本雅亨は書いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして最終的に明治の日本人がよく知ることになったこの肖像画が作り出された。かなりの修正されたイメージであろう。
 
 
 

 

もちろん造られたイメージでしかない。わざわざ西欧人に王者らしく見える「縄文顔」にしてある。
 
 
 
 
面白いのは、堂々とした君主のイメージが、幅広い縄文顔や濃いヒゲであると明治の為政者達は思っていることである。それは西欧化を勧めていた明治政府の勝手なイメージでしかないことは、一番上の写真を見れば一目瞭然。
 
 
 
ところが、当時までの日本国民は、ほとんど誰も天皇の姿など見たこともなく、それどころかそのような君主の存在すら知らなかったのである。だから君主とはこうした立派な風采の人であると、一発で信じ込まされてしまうのである。
 
つまり、江戸期までの天皇とは、奈良・京都の王でしかない存在だったということである。平民はむしろ将軍家だけが大王であると認識しており、天皇とは大和地方の人、あるいはまったく天皇の「て」の字も知らないのだった。
 
「天朝さまとはどんなものか、民衆のほとんどは知らなかったので、政府は売り込まなければならなかった。だから天皇巡幸を催した」吉村徳蔵などの記録から岡本雅亨
 
 
読売新聞は、天皇誕生日(天長節)の解説を第一号にわざわざ掲載し、「睦仁とは恐れ多くも天子様のお名前で、陛下といふのは天子様を敬っていふ言葉」と解説せねばならなかった。
 
 
 
どうしてこんなことだったのだろう?
なぜ日本国民は明治時代になるまで、天皇という国家元首を知らないままだったのか?
 
そのこたえのひとつはこの地図にある。
 

 
 
日本は、過去の歴史教科書が言ってきたような、『日本書記』皇国史観による奈良時代からの統一律令国家だったのではなかった、という衝撃的真実である。
 
今の教科書が使っている上の地図は、あきらかに飛鳥時代以前には、日本に大和朝廷による中央集権日本はまだなかったことを示している。この地図には、しかしまだ欠落している地方国家がいくつも存在する。南九州の熊襲たちの国家、東北地方の「日高見」連合体諸国家、日本海の丹後・若狭などの小国家・・・などなどがこの地図には載っていない。
 
天武天皇が「近畿地方を統一した壬申の乱」のあと、記録は大宝律令などの制定を言い募る。しかし、それらはすべて近畿地方、大和地方の内部の話だけで、全国の諸国家が全部、納得して頭をさげたものではなかったのである。
 
大和至上主義歴史学は前方後円墳こそ、大和が全国統一を成し遂げた証拠品だと誇らしげに主張するけれど、その前方後円墳の内部に一度でも入った人間なら、その様式が地方によってばらばらであることに気づくはずである。前方後円墳は見せかけの統一、いや、ただの型式のブームだったに過ぎない。それはすでにこのブログで、大和が自分を大きく見せるがためのハリボテ、えっへん遺跡であると書いたし、その源泉こそが縄文からのヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期の産物にすぎなかったことは明白である。
 
 

 
 大正天皇のお顔も細面
 
 
 
 
 

 
自称元皇室のこの人も細い。
 
 
 
 
 
 
 
その証拠に、明治時代まで、日本人は標準語というものを持たなかった。東北の岩手県の人々は、明治時代まで、自分達を「ケセン国」の「ケセン人」で、しゃべっている言葉は「ケセン語」だと思っていたという。その「ケセン国」とは岩手県気仙郡~宮城県気仙沼地方のことである。そして東北人たちは、それまで自分達を日高見連合体=大和から見れば蝦夷連合体の中の●●国人だと固く信じ込んでいたのである。
 
また島根や鳥取でも似たり寄ったりであった。
出雲は日本海側でも珍しいズーズー弁地帯と言われてきた。
 

 
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ほとんどの日本人が、日本語はかつて中心地だった京都から円を描くように、しだいに外側へと拡散していったと信じ込んでいるだろう。しかし今ではそれも古い説で、大和中心主義の考え方に過ぎない。この金田一春彦の地図も、もう古いといわねばなるまい。
 
(特に瀬戸内言葉の区分は間違っている。四国西部を関西弁地帯としているが、古代には瀬戸内言葉地帯、それが次第に関西弁に「毒化された」。畿内の広がりにともなうもので、それこそが神話の国生みに反映されている。)
 
 
出雲だけが東北弁地帯?それも詳細には違うと言える。なぜなら出雲は縄文後期から海の道で琉球とつながっていたからだ。出雲は東北と南海をつなぐ中継地だったのだ。だから東北弁も琉球言葉も南九州・北九州言葉も南北海道言葉も入っている
。そして当然半島の言葉も。東北弁のズーズーよりも、「しゃん」「しぇい」は福岡の博多弁・朝鮮発音に近い。ざじずぜぞになるのは東北的。言葉に音節の切れ目がないのは東北弁。だからこそ、中継地だったからこそ文化が発達していたからこそ、大和に狙われた。
 
 
 
 
ではいったい、いつその正真正銘の統一国家日本は成立したのだろうか?
 
平安時代から?、鎌倉幕府から?、室町幕府から?、江戸幕府からであろうか?
明治時代からなのである。
 
 
 
 
天皇家と出雲国造家・・・男系で存続したのは出雲国造家の方である。
 
 
 
 
引用地図画像と参考文献 岡本雅亨 『民族の創出』
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