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何かのテレビで誰か作家が語っていた 文章の生まれ方を観た。それが自分と同じだった。

いわく「何か構成して書き始めるわけじゃなく、タイトルが最初に浮かんで、書き始めると勝手に(自分の意志ではなく)文章ができてしまう」。

これって筆者が学生時代に小説や論文を書く時もそうだった。友人に飲み屋でよく言っていた。
「書き始めたら湯水のように言葉が湧いて出てきて、勝手に書いてしまうんだ」。

ブログを始めた50歳の頃から、10数年、そうやってここを書いて来た。しかし15年過ぎると、ネタ切れになる。古代史なら古代史の謎がどんどん解消されてゆくと、次第に読むべき資料も少なくなってくるから、当然書けなくなる。だからそうなったら図書館をはしごすることに。それでもなければ、ネット検索になる。それでもダメならもう休む。長期間、別のことだけ考える。

ちょうど行き詰ったゲームが、トイレに行って気分が変わると、なあんだ、みたいに解けてしまうようなものだ。

自動書記という言葉もあるが、ちょっと違うか?

とにかく今日もこれって書くことがないんだが、ブログをひらいて書こうとすると、何かふっと思いつく。そういう間は書けるんだってこと。

今は、新型コロナの責任はGO TOを開始した内閣にあると書こうと思っていたんだけれど、書く直前に今書いている内容が思い浮かんでしまい、まずそれから書いて、あとでと開始したわけである。すると勝手にこういう文章になった。

時には考えとは正反対になることもあったりする。邪馬台国関係なんかはよくそうなる。これはつまり邪馬台国がどこにあったかが決められない問題だからなのだ。二者択一以上の択一をしかねる問題では、頭の中には相反する二物の考えが錯綜しており、その日の気分やヒントによって、書くことが瞬時に切り替わってゆく。

あるいは書いているうちに、どっちの意見だったかわからなくなることすらある。書きだしたことを、書き終わりに否定するようなことを言ったりしてしまう。つまり三島由紀夫のような詳細なメモを作らない、フリーハンドの思いつき文章だからだ。無計画である。ところがブログは日記なので、それでもよいのだ。
むしろその方が多くの来訪者が来ることが多い。

とにかく長く続けるには知識と経験の多さは必要だが、その後の予習はかかせないし、衲に新知識を補填してやらねばならない。引き出しをたくさん持っている必要があるので、若いころから真面目じゃなく、勤勉でもなく、とにかくいろんな遊びや本を読み、少々はずれて生きている必要性はある。真面目なスクエアな人には面白い着想は生れない。それは間違いない。

考古学の発見をただ待つとか、学者の意見が固まるのを待たねば書けないような真面目な研究者や好事家は、ブログ毎日更新など無理な気がする。そういう人の書くものを読むのなら、彼がもとにしている学者専門家の本を探すほうがよほど身になる。そして書けることになる。



ゆえに、筆者は人様のブログは読まぬことにしており、意見も書き込まぬことにしている。面白かった時だけそう書き込む。意見はさしはさまぬようになった。時間が無駄になるからだ。ヒトと対立しても人生を無駄にするだけ。思考の邪魔になると気づくからだ。自分は自分である。ブログはそういう楽しい自己主張の場所であり、フォローするためならほかのSNSを使えばいい。そもそも人とのふれあいのためにネット・メディアがあるとは思っていないのである。ネット情報を信じていないからだ。他人の考えにも染まりたくないわけである。

つまり私はしろうとを楽しんでいるということだ。

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